2026年9月10日掲載
政治風土を変えるための私の提言(2)
地方自治という時、国に対しての地方の在り方をいう場合が多い。しかし、これは相対的な関係で国がなければ、地方はない。この逆もいえる。互いに補完性がある。しかし、このバランスは時として崩れる。戦争になる過程は国が中心に考えられる。地方より、個人より全体の国という考えだ。まとまって外国に対抗しようというわけだ。このまとまりを欠く地方は対抗力が分散するわけだ。要するに一点に集中して効果を上げようとする。地方自治は邪魔な存在となる。考えてみれば戦争の時に、地方自治はありえただろうか。
戦争は地方自治には馴染まない。また地方自治を守ることが自治をつなぎ合わせた国の民主的な運営になる。恩師の荻田保先生は自治庁(後に省)からの自治官僚で、戦後、アメリカがわが国へもたらした地方税制を確立した人である。彼は、「地方自治は200戸程度から広げていったらどうかと思う」と言っていた。1975年当時の話である。先生は「アジサイの花を構成するつぼみを大切にすることだ」と言っていた。当時、大学院生であった私を意識して目の付け所を示していたのだろう。門下生として荻田先生から期待されてその後は、愚直に地方自治を考え、実践してきた。「200戸からの地方自治」とは、住民すなわち国民がそこに暮らしているのである。命、暮らし、働きが守られていなければならない、ということである。この地方自治の最小単位から議員のあり方を考えると、議員を先生と呼んだり呼ばれたり、議員バッジを付けることも不自然となる。
選挙で選ばれたといって先生、議員だから目立つバッジをつける。特別扱いである。選良というのは特別扱いではない。内面、心の持ちようであって個人のものである。あえて選良を意識するのは議会で質問する「質問権」とそれを作成するための「調査権」を与えられているということである。私の言う政治風土の改革は、「先生」と呼ばない、呼ばせない、議員バッジを付けないことである。街の中で議員のポスターが張ってあるのを見るとかならず、議員バッジから上である。彼らはバッジにこだわっていることの証である。細かなようで実は核心をついていると思う。
2026年9月9日 記
