2018年4月5日掲載
井原西鶴と幸田露伴
—時代を隔てた師弟—
元禄文化の主な柱の一つである文学と西鶴についてみると、平安時代の優美な文章から庶民の用いる日常会話に近い文章になっている。人情、状況を記すにしても裃を脱いだ様子がうかがえる。
それまでの中国の故事を引用した漢語が多用された文体から、庶民の感情、生活習慣などが語られるようになっている。
藤村 作著「西鶴物語」では、幸田露伴が西鶴を評価している一文を紹介している。——西鶴の文章は自然そのものである、として、一回読むと急流を舟で下るようにその過程は、ただ奇しいだけを記憶する。二度読むと、その過程はどこにでもある風景である。そして三回読むと二回目とは違った感想が湧く。普通の世界を異次元の世界のように表す。文章とはこうあるべきだ。異次元を思わすような箱庭を作って人に見せるような文章は、子どもの文章である。
私はかつて人に聞いたことがある。下手な料理人ほど珍しい魚を喰わせたがるものである、ということだった。西鶴はどんな魚でも美しく料理するものだ。——
—西鶴と露伴をつなぐ俳句—
井原西鶴に露伴が心酔していたことがわかる。いま「西鶴物語」を読むと、まず西鶴が俳諧師として文章と関わったことと関係する。談林派の主力で大阪で活躍していたのだ。
よくいわれる一日で作る俳句数を競う矢数俳句で、23,500句を達成したという逸話もある。
この俳句、五・七・五の調子が文章に生かされ、その題材も風景から人事、心理まで含まれていることが文章にも強く影響を与えていると思われる。日本永代蔵の商売、好色一代男などである。また露伴の文章も熟読すると人生の極意に到達できる示唆に富むものが多い。西鶴に共鳴していたといえる。芭蕉研究でも著作「評釋芭蕉七部集」などを残し、自らも俳句集を出している。俳句の前身である俳諧は世間を斜めに見る皮肉、冷やかし、滑稽などで庶民の鬱積の発露でもあった。
それだけに口語調の俳句が、喜ばれ広がっていた。小林一茶の句に伺える。
作りやすく観賞しやすく短い詩であったからでもあろう。西鶴も露伴も庶民を静観する文学者として、距離を置いた位置に立つことで事物の実態と核に迫ろうとした文学者といえる。
2018年4月3日 記