2018年10月9日掲載

[明日のキュレイター]
自分にとっての美術、美術展とは?

—はやりから心を動かす観賞へ—

 虫が鳴きはじめると物を思う秋ということになる。

 陽も弱くなり緑も数少なくなり空気も澄んでくると、あわれを感ずるようになる。美術の秋でもある。

 年間を通じて美術展への観客は増えている。入場までに数時間ならぶものもある。琳派といいフェルメールといっては、人は集まる。

 よいことだ。教養が深まる。美しいものを探して美術展に行き、自分の美に対する見方を確認したり、発見したりして自分を広めることができる。

—この国の貧しい文化行政—

 赤裸裸に利益を追求し、経済が活気を取り戻すことがすべての始まりという経済至上主義のわが国をはじめ先進諸国は、ひたすら経費のかかる文化行政を添え物としてきた。昨年4月の山本幸三・地方創生大臣の学芸員を「一番のがん」と発言したことにも明らかである。経済至上主義ならぬ票至上主義の政治家が美術をはじめ、票にならない文化行政には無関心であっても不思議ではない。

 東京を中心とする大都市の美術展は新聞社などの後援もあり、一見、賑やかである。しかし地方の美術館は閉鎖しているところも多い。

 流行や煽られた気分での美術展ブームに踊らされている心配もある。外国客の人寄せの美術行政の前に文化、それも富を生まない行政に政治家、国民が理解を示すことがまず先だ。

 “花より団子”の国民ではいつまでも山本大臣を作り出していくだけだ。

 ブラジル・リオデジャネイロの国立博物館が今月はじめに大火を出した。約2千万点の収蔵品が焼失した。

 国が防火、消火設備などの対策に予算を充分に出していなかった。対岸の火事としておけない。

—見えない価値を見る目を養う—

 学芸員になって、学芸員の地位向上のためのNPOを設立する準備を進めている。お札で量れる経済、東大入学者数で競う進学校、入省年次で出世を競う官僚、売り上げを誇るIT産業。

 どれも否定しない。しかしそれが肥大化し主張しはじめると力の社会になる。

 文化は力ではない。精神のゆとりだ。ほどほどの生活ができれば、自分を考え、歴史、美を見つめ直すゆとりを持ちたい。

 秋は物悲しさと反省を求める。熱の夏から一転して涼しさがもたらす落ち着いた生活をする時だ。

 メッキで貼りつけた名前だけの美術展・文化に満足するか、絵の前で30分、1時間動かない自分を許す時間が持てるか、美術展とつきあうのも精神の勁さがいる。

2018年9月26日 記