2019年8月13日掲載

あえて群衆の一人にならず

—自分らしい振る舞い—

 この夏、本阿弥光悦の詳説を書くために、寛政2年(1790年)、寛政10年(1798年)に正続篇が刊行された『近世畸人伝』伴蒿蹊(ばんこうけい) 著を通読している。中江藤樹、遊女大橋、白幽子、光悦、角倉了以、英一蝶など人の特異な人生をしるしたものである。有名、無名を問わず衆をたのんで行動していない。畸であり狂の境地で自分を生き切っている。

 ある者は世を捨て隠者となっている。鴨長明、西行などと流れを等しくする。

—いま大衆、群衆が溢れている—

 一人わが道を行く、といえば変人といわれる現代である。みんなそろって手をつないで、という教育が今である。これにはずれれば異端あつかいで疎外され、小暴力にあう。

 個の自由を奪う集団主義である。個にも集団にも欠点も長所もある。それを補う教育が必要である。だが今は言一人や孤独を許さず集団にとりこみ均質化しようとする。群からの脱出を認めず、閉じ込めようとする。

 ヤクザ集団が更生して、群から出る仲間を痛めつける心理である。

 みんな誰かの真似をして、誰かが旨いというラーメン屋に行列する。自分に自信がない集団依存の生き方である。

—江戸時代の畸人の生き方に学ぶ—

 江戸時代は封建制が強く、圧力をかけ個人の生き方を束縛してきたと考えられた。しかしこの『近世畸人伝』を読むと制約の中でも自分の生き方を実践していた人間たちがいたのである。集団による個人の壊滅を許さず、強い個人の信念が生き生きとしている。失われた個人、個性をこの本で再確認し再評価した。江戸時代を時代遅れの古い日本の姿とするのは間違っている。

 いま顔を失いのっぺらぼうとなった現代人に、一人一人の生き方を克明にしめしている。今最も読まれ、考えさせ、実践を要求する好著である。

2019年8月10日 記