2021年2月27日掲載

人間本位の社会こそ望ましい

 いま女性の会社、会議体、議会などでの構成人数、社会的比重が問題となっている。わたしは前からこのホームページで「男女の比率を言うより人間としての能力が評価されて登用されることが公平である」と主張してきた。会議の構成員の何パーセントを女性が占めるべきである、という表面的な数字のあてはめだけで議論するのは、単に男性優位社会への反発に過ぎないと言ってきた。確かに日本の社会では、男性が重要な立場にいる機会が多かった事実がある。男性社会であったり、教育の機会が与えられなかったりした時代が長く、今でもその傾向はある。

 だが無競争で立場を割り当てるという論には頷けない。私が戦ってきたビルマの民主化運動について考えてみると、いまスーチー顧問を再び自宅軟禁している軍事政権を名乗る勢力は、選挙に出なくても始めから4分の1は国会議員になれる旧憲法を誇示している。これは軍人という立場に特権を与えていることではないのか。これなどを改正するために先のビルマの総選挙でスーチー顧問の国民民主連盟NLDは勝利した。そうした民主化の運動に対して、軍部はクーデターを仕掛けてきた。武力で政治を壟断したのである。話を元に戻すと、あらかじめ枠を設けて女性を登用することは、選挙にでない軍人に議席を与えるのと同じではないか。

 機会は男女ともに公平、平等に与えられることは当然である。だが頭からクオータ制などと言って外国の真似をして枠を設けても何の益もない。ふさわしい能力、人格が伴っている補償にはならないからだ。

 話は飛ぶが私が痴漢犯罪を取り上げていた時に、ある女性は男性を痴女する友人がいるといった。女性の国家公務員で総理の長男から接待を受けた人間もいた。ある県の警察幹部は殺人事件の処理を誤って給料の一部自主返納をした。この事実を見ても男だから、女だからというのではなく、人間にはその要素が誰にでもある危うい存在であるという謙虚さが大事だということだ。すなわち強くもあるが,弱くもある存在が男、女を問わない人間の本性であると知ることである。男でいて女を理解しようとし、女でいて男を理解しようとする努力こそが喧しい権利主張は溶解していくのである。

2021年2月24日 記