2021年3月20日掲載

分からない天気予報士の役割

 天気予報が色々な情報機関で出される。新聞、テレビ、ラジオ。

 だが情報の出どころは気象庁なのだろう。一人一人の予報士が気象衛星を持っているわけがない。とすれば、基本の気象情報は莫大な予算をかけて施設を建て予報衛星を打ち上げられる気象庁が独占することになる。ここから発表される予報に予報士が、四季の彩りを付けて歳時記や日本の暦を混ぜ合わせて解説することになる。ここにのみ個性が出されるだけだ。

 いつの頃からか気象予報士になる資格試験がおこなわれるようになって、気象情報を自由に解説するようになった。職種がふえ、気象庁の仕事が民間に移動したのだからこれも行政改革と言えるのだろうか。だが先に触れたように情報の出どころは気象庁であるとすれば、当然、予報は画一的になるはずである。それでよいのだ。予報が新聞、テレビ、解説者などで違うとなれば視聴者は戸惑い、混乱する。そんな当たり前の事に敢えて予報士制度を取り入れた根拠が分からない。そのうえで予報が当たらない。予報はあくまで予報と割切ってあてにしなければよいのだが、資格試験までして導入した予報官制度。本当の役割を果たしているのだろうか。もし今のまま曖昧な姿で気象予報がされていくとしたら、テレビや新聞、ラジオなどの解説者の予報の当たりはずれを一覧にして、公表するべきである。

 そして予報能力の競い合いがあってこそ、気象庁の一元化された情報に代わる予報官制度が生きてくるといえるだろう。外で働く労働者、屋外で行事を行う関係者は気象予報に日々恐々としている。天気によっては仕入れをどうするか、切実な判断を毎日している業者が多い。そんな人々にとっては、気象予報士の予報が外れても、お詫びを言うわけでもなく予報は予報、外れることもある、と居直っているように見える。まずは予報士の予報の当たりはずれの一覧をつくって公表することで、気象に生活が懸かっている人々がどの予報士を信頼していいのかの参考にできるようにしたらどうだろう。

2021年3月18日 記