2023年8月22日掲載

無責任な風潮

 私の家の前に犬の糞が取らずに残っていた。このことから町に住む責任を考えたい。

 街は道幅も広く、春には桜を見ながら歩く人が遠くから来る。のんびりとした街である。ここ十年ほどで犬を飼う家が目立つようになった。二匹、三匹連れて歩く人も珍しくない。問題はこれと並行して糞を取らない人間が増えてきているということだ。今日、私の家の前に残してあった糞は、細いもの。子犬、小型犬ということだ。

 犬を飼うということは、保健所での狂犬病対策などは当然。さらに排泄物の処理も常識。一方、テレビの宣伝に使われたりする犬も出て、子どもなどが欲しがる。犬を供給する方も売れなければ、餌をやらない、運動もさせないなどで問題を起こす業者も出る。

 一時の感情で買ってみても、散歩、食事、手入れなど手に負えなくなる人も出る。犬の方は被害者である。人間の思い付きで飼われ、動物管理法があることすら知らない人間がいる。訴えられて犯罪を構成する。そこまで考えずに気軽に飼うのだろうが、犬を管理することは、自分の生活の流れを犬に束縛されるわけだ。それを後から気付く人もいる。飼えば責任が伴う。この責任を果たすことが最低限の飼う条件である。今日、私の家の前に残された糞は私が処理した。飼う資格のない人間の後始末をしたわけだ。世の中には社会に負担をかけずに、自分の責任を自覚している人ばかりではない。だが未熟な人間が人に迷惑をかけて、平然と暮らしている現実もある。

 人に人権、平等を要求するならば、自分の犬の後始末をきれいにすることから始めたい。小犬の糞のような小さなことを放置して、国家、国際平和を語っている人間の薄っぺらな感覚が世間に浮遊している。まず目の前の小さなことからかたづける合理精神を身に付けたい。

 ワイマール公国の市長になったゲーテは「皆さん箒をもって、自分の家の前を掃きましょう」と言ったという。住みよい街を作るのは小難しい理屈ではなく、箒で家の前を掃くこと。これが集まれば、住みよい政治になるということだ。

2023年8月18日 記