2018年11月22日掲載

裁判員制度の歪みを見通した人

—東大法学部長、最高裁判事、故団藤重光—

 まず故団藤氏の紹介。終戦後、刑事訴訟法の全面改正を指導し、東大法学部長を経て、74年から83年まで最高裁判事を務めた。

 彼は死刑廃止を強く主張していた。死刑に代わる最も重い刑として、仮釈放のない終身刑を恩赦の可能性を残すことで考えていた。

 それは死刑よりも残酷な刑となる、というのだ。

—個人の感情と国としての制度—

 家族や親しい人が殺されたら、犯人を殺したいと思う感情を持つのは自然、当然である。

 当り前であるが、そうした自然な感情を人が持つことと、国が制度として死刑という形で犯人の生命を奪うのとは、全く違う。例えば戦争を人情、感情から当然である、と是認するとしたら誰も納得しない。

 そこに政治が出てくる。国民に問う世論(せろん)調査では死刑存続が多数である。

 政治家は世論(せろん)に従うべきだ、という固定観念がある。

 ここで私、和田のいう世論(せろん)と世論(よろん)の分別が出てくるが、詳説は置く。政治は国民の考えに従い、是認するだけでは未成熟である。衆愚政治になるからだ。

—死刑廃止と裁判員制度は不可分—

 団藤氏は日本では9世紀から保元の乱まで、300年以上、死刑は停止されていた、という。日本文化の「私をもって貴しとなす」という文化からも死刑はなじまない。

 裁判員制度が導入される以前から死刑廃止を、法務省の勉強会にも訴えてきた。

 裁判員制度は国民から起こってきた要求運動からきたものではない。政府が考えた思いつきといってよい。ドイツ、フランスでは参審制であるが死刑は廃止されているので、国民が死刑を被告に言い渡すことはできない。いわゆる先進国ではアメリカのある州では陪審制でも存置されている。アメリカの顔色を見ることになれた日本は廃止を考えない。

—ジャーナリズムの影響からの死刑—

 過去に国民参加でない裁判であっても誤った判決はあった。裁判員制度になればこの誤りは減らずに増える。

 それは情報社会における感情の支配である。

 テレビなどが競って「被害の状況、被害者とその関係者の無念、悔しさ」を奔流させるからである。国民は冷静な法的判断力を持たないまま感情に支配される。

 こうして国民が裁判員として下す判決は感情に影響された間違った判決になる可能性も高まるわけである。

 前回に明らかになった裁判員制度を採用した前後の死刑判決の差は、国民参加をうたい一見裁判の民主化を企画した制度の欠陥を証明している。団藤氏の経験からくる死刑廃止と裁判員制度のあり方は、10年目の来年に向けた廃止を強烈に訴えている。

2018年11月14日 記