2023年8月20日掲載

「界」のいかがわしさ

 いまジャニー喜多川という芸能界に影響力を持った人間の、性行為についての話題がある。男性それも若い男性への身体接触である。被害者が名乗り出て明るみに出た。同じ問題はキリスト教の世界にもあって問題になった。喜多川についていえば、マスコミはじめ芸能世界に売り込んでもらうために、不本意ながら身を任せたのかもしれない。キリスト教の場合は閉鎖社会の性欲の処理であったかもしれない。日本の仏教界も例外ではないと思う。

 自衛隊、マスコミどこでも問題となり、裁判になっていることは誰でも知っている。

 ここで「界」という限られた範囲の世界が問題となる。何にでも界を付ければ集団となる。ここにはアニミズムという原始信仰のような、暗黙の決まりがある。きれいごとで言えば権威、俗にいえば掟である。これに従わなければその世界では爪はじきにされて、生きていけない。中には名前を売るために、世に出るために自ら進んで自分をそこに置く人間もいるであろう。そうして有名人になって、双方が黙していれば何の問題もないのだ。納得して、合意しているから。

 だが、このようなまさに人間の本源の性を媒介とした社会があることを一般の人は知らない。それも「界」のなせる業である。現代社会は人権、自由を前提に出来ているはずである。このはずが「界」に入るとまったく閉ざされる。そして力関係をもとに、一時的ではあっても、合意の下で性行為が行われる。それを後になって公にして今回のジャニー喜多川の問題が明らかになった。

 今回問題としたいのは狭い「界」という名下では通用してきた現代アニミズム、引き続いてきた掟、仕来たりのいかがわしさからロボットの時代になっても、われわれは進歩、発展出来ない動物であるという自覚である。

2023年8月16日 記