2019年1月21日掲載

光悦的見方としての現代

—芸能人社会の日本—

 いま子ども、小・中学生に将来には何になりたい、と聞くと多くはテレビなどで人気の芸能人(芸人)、スポーツ選手などの名が挙がるだろう。人目に付いて着る物も派手で、誰からもチヤホヤされる。

 そしてお金にもなる。万事に思うままの世界に見える。しかしそこに至るまでの、地道な修練と運がなければ舞台には上がれない。さらに個人の能力だけでなく、所属する事務所のテレビ、映画、舞台などへの売り込みがある。名のあるプロデューサーなどの手にかからなければ、これも困難だ。

 売り出してもらうためのお金、情実は予想される。

 労働基準監督署などが目をむくような仕事量もこなさなければならないことは、いま有名になっている人、なりつつある人の証言でも明らかだ。

—少なくともテレビは芸能界主導—

 テレビの番組で教養、娯楽などと分けることもできないくらいに娯楽化している。

 当然、言葉づかいも乱暴で、茶道、花道などの教室が消失したかのような状況である。乱暴さに歓声をあげ、同調する始末である。かつて「笑点」で舞台とはいえ、桂歌丸さんの風貌を笑いものにして拍手を取っていた噺家がいた。見苦しい限りであった。しかしそれが芸能界、芸人の世界なのである。若い人、子どもに好い影響があるわけがない。

 ひるがえって私たちの日常でも高齢者を邪魔にする風潮がある。

—光悦は過去のよいものを発展させようとした—

 光悦を日本のダビンチと言ったという人がいた、という。私はそこまで手放しではないが偉人であると思っている。光悦の新しい面を2月10日から始まる文京学院大学の講座で披露するつもりだ。ここで言えることは彼が武家社会よりも王朝社会に好意を持っていた、ということである。

 簡単にいえば「新古今和歌集」、「源氏物語」などへの憧れもあったろう。

 とにかく鷹ヶ峰に職能組織を作り、協力体制を作った。紙、筆、土、炭などを生業とする人人を集め、工芸、美術の生産地としたのである。

 光悦の目指した芸は技術、それも工芸といってよい。出雲の阿国などの芸人とは一線を画す。

 しかし、阿弥号を姓に持つ本阿弥光悦は、踊り念仏の時宗の出身であり、決して身分の高い出自ではなかったことは明らかである。現代の芸能人、そして400年前の芸術人としての光悦、そこに大きな隔たりができた経過はどこにあるのか。

 2月の講座はその比較論にもなるだろう。

2019年1月11日 記