2021年2月4日掲載
現代における都市と性の問題
幸田露伴の『一国の首都』を現代語訳して驚いたことは、そのおおくの部分が吉原遊郭の隔離の必要性を説いていることであった。この本の中で、いまの世の中には存在しない吉原にこれほどの分量を割くことに疑問を挟む評論家もいる。だがこれは近視眼的な見方と言えよう。
—露伴の説く都市の魔力—
明治期以降に活躍した文人のなかには、国、都市に関心を持つ人が少なくない。例えば北原白秋、森鴎外の首都論も露伴のそれと比較すると見識の豊かさに驚く。これについては、かつて関係した大学の紀要に書いた。
さて、話を露伴に戻す。露伴が誰もが持つ性の欲望の扱い、処理に公設の遊郭を認めて区画された地域に封ずる考えを示していることは、現実的といえるであろう。どうしても性処理は動物としての人間の本源に触れるだけに、人間を哺乳類ということを自覚する教育が欠けている。すなわち今の時代にあっては、人間を猿や犬と同じとは、考えない、別格の存在と思い違いしているのである。
—都市の性処理—
都市には人が集まり、その人には性欲がある。であるから少し前までは女子を持つ親は、夏の肌の出すぎる装いには、注意をしたものである。「男はみんな狼よ」という歌さえあったから、男性の性の欲望を刺激しないようにという教えである。一つの防御策で、知恵である。だが今は肌をさらして男性の欲望を刺激しても、男性に抑制を求める社会となった。女性は刺激している自覚がないのだろうか。
SNSなどが当たり前になった情報社会では、便利になった反面、誘惑があちこちから迫ってくる。警戒心を持たない女性はこれに引っかかる。男の言うままに自分の裸の写真を送って性的行為を要求され、脅されるという愚かな顛末が日常に起こっている。
高校生が公衆便所で出産し、殺して逮捕される事件などは珍しくなくなった。組織の力関係や上下関係から、すなわち意に反しての複雑な同意。自分を売り込むための詐術。などなど単純ではない事情があることは事実である。少なくとも本人の同意が前提とされなければなるまい。
—これからの性のあり方—
我が国では2017年に110年ぶりに刑法が改正され、性犯罪規定が3年を目途に見直しすることになっている。この改正では、強姦罪を強制性交等罪に改め、男性の性被害、法定刑の下限の引き下げ、18歳未満の子への親の性行為も監護者性交等罪とされるようになった。これでもまだスウェーデンと比べると劣る。かの国では本人の同意がなければすべて犯罪になるという。我が国はいまだに性が禁忌として扱われ、義務教育以前からの性教育は、羞恥心から子も親も避けて通る傾向がある。恥の文化を日本人の特性という指摘があったが、こと性に関しては恥とは別世界にあるはずだ。本人も家庭も社会も自由な個人の冷静な保健、衛生、生きる権利の問題と捉えていくことが望ましいと思う。
2021年2月1日 記