2014年2月6日掲載
結果がすべてなのか?
—民主主義の危機—
政治は結果だ、どんな理論、理屈にまさるのは結果だといいます。
綺麗ごとでは世の中は生きていけない。生き馬の目を抜くのが世間だ、などと言われてきました。
しかし捨てる神もあれば拾う神もあるとも言います。
私たちの社会、世の中、世間は一方に片寄ったものではなく、ときどき結果が大切であり、ときどき過程が大切でもあります。
均衡が目に見えないところで働いているのだと考えるほうが、現実的だと思いませんか。結果は目的ではないのです。
選挙で大勝という結果をすべてとすれば、いまの安倍政権のやりたい放題はということになります。
選んだ人はそれを承知であったということでしょうか。特定秘密保護法や米国関係などについてです。
結果がすべてということを勝利者が声高に発言することで、敗者はそれに従わなければならないのでしょうか。
勝利者に全権委任したわけではありません。
しかしこの問題は選挙民主主義の欠陥として時間をかけて議論する必要があります。オセロゲームのような、白か黒かではありません。
結果は後からついてくるものです。それも何気なく振り返ってみたら、結果があったというふうにです。
結果、結果、結果は戸惑い、嘆き、考えることを軽く見て急き立てる衝動です。
私たちの身体の基本である呼吸数をいちどきに増やして、数億年かかって作り上げた均衡を変えろといっても無理です。
しかしその無理を強いるのが結果をすべてとする考えです。
さらに結果をすべてとする考えは急いで急いでという友人をつれてきます。
急いで結論を出せ、というのです。世の中は時間も距離も短縮されてきました。新幹線、IT社会を見れば納得します。結果を急げばその次には成功した結果を求めます。そんな虫のよいことばかり求めてすべて満たされるとは限りません。
しかし成功した結果を早く求められて、すべてこたえられる人は神です。
そんな人はいません。
早く政治家はそのことに気づいて、結果がすべてではなく、その過程、道すがらも大切だと理解することです。
2014年2月25日 記
