2014年9月14日掲載
朝日新聞に謙虚さを求める!
—新聞にエリート意識はいらない—
9月11日になって朝日新聞の最高責任者の木村社長が、福島第1原発事故の「吉田所長の命令に所員が違反して撤退した」という報道の間違いを取り消し、謝罪すると発表しました。
さらに従軍慰安婦問題でも記事の取り消しと評論家 池上彰氏に対してコラムの掲載をしなかったことをおわびしました。新聞は「社会の木鐸」といって自らが特別な立場をうそぶいていた時代がありました。年輩の人で社旗を車の脇につけて走っていた当時を思い出す人もいるでしょう。かつて世論(せろん)を誘導して戦争へ国家を追い込んだ罪を忘れてしまったかのように傲岸な姿が朝日の一連の対応にあります。
かつて情報源は自分たちしかなかったという思いがあがり、自分たちが社会を正しく導いているという思いあがりがそこには見受けられます。私の経験でも朝日新聞には考えさせられることがありました。
政務調査費で広辞苑を買いました。議員の自分の机上に必要としたからです。文章を書く機会の多い私は、家にも3冊あちらこちらに置いています。
4、5キロもあるものを持ち運ぶ余裕はありません。
そうしましたら朝日の記者から電話取材が入りました。2、30分にわたって、自費で買うべきで公費はおかしい、というのです。
私信で連絡を取るのにほとんど辞書は使いません。質問などの公文書を書く時に誤字のないように、表現の正しさを調べたり確認したりするのに使うのです。
押し問答の末、翌日、私の名前が公費の私用という雰囲気で載りました。
その時の取材は頭から正しい政務調査費の使い方でない辞書購入という結論があっての取材と考えました。この度の引き続いた朝日新聞の対応のまずさは、決して誤りを認めない、ましてや謝らないという完全主義のなせるわざです。これは他の新聞にもいえるものです。とりわけ朝日の論調をよしとしない言論界の人人からは、朝日は廃刊すべき、という主張も出ています。政治家に庶民の声を聞け、頭を低くしろというその本人の新聞、とりわけ朝日などは、権威を持っていたとすれば、それは何だったのかと自省するべきです。他人を批判する立場の朝日や他の新聞は自らに厳しくあって均衡がとれるのです。
2014年9月13日 記
