2015年8月16日掲載
情報の受け方、拒み方
—自分の発想のために—
いつでもどこでも情報が取れる。知りたいことがわかる。こんな便利なことはない。早く知らせて、それを面白く知らせればお金になる、というのが今の情報社会(情報化ではなく)。
流してくる方は、いろいろな情報を待っている人人に向けていろいろ流す。受ける方は関心のないものを拒めばいいだけのことです。
でもつい塀のない情報を取ってしまう。そしてそれに騙され、お金を恐喝される。拒む勇気、理性が求められます。これは鍛えなければ身につかないものでしょう。賭け事、パチンコなどで人生を回り道している人もいます。この情報とのつきあい方はいつの世も難事です。テレビが家庭に入った頃、わが家では1日2時間、朝の6時30分から1時間、夜も6時30分から1時間だけが規律でした。勉強しなくなるから、という理由です。
随分な年数これは守られた「家訓」でした。
さて私は現在こう考えます。身の回りには瞬時に入るテレビ、1日空いて来る新聞、週刊誌、月刊誌、季刊誌、年鑑と情報源はあります。
テレビ以外は私たちの生活の中に染み込んだ時の動きと連動しています。書く記者、編集者も情報を確かめ、そこから引き出した提案などを書く時間があります。芸能など人気者のとりとめもない情報はともかく、安保法制、原発、沖縄基地問題、IS問題などは月刊誌の論文、批判でふさわしいと思っています。そのくらいの蒸らす時間が欲しい。それは自分のなかで思考、判断できる時間でもあります。この時間を情報社会は私たちから奪い取ます。考えない大衆にしていくのです。
情報社会は個性を認めない洪水のような魔性があることを、それぞれの家庭で気づいた大人が教えていく必要があります。
2015年8月12日 記
