2017年1月22日掲載

責任ある指導者とは

—将棋界と文科省の場合—

 将棋といえば日本文化の一翼をになう伝統の芸能です。将棋を指す行為そのものが型式そのものです。

 駒の入った箱を開けるのは上位の人、遅刻した時はその3倍を消費時間とする、歩を2枚置いた瞬間に敗け、という風に厳しい型式があります。茶道、花道、香道などは制約のある芸能です。

それだけに行為に出る前の熟慮、考察が大切なのです。その将棋界で連盟会長が誤まった判断をしました。ある棋士が対局中にしばしば離席するのはパソコンの将棋情報を参考にしているのではないか、という相手の訴えを容れて、疑惑をもたれた棋士の決まっていた挑戦権を奪ってしまい、かつ対局を禁止しました。第三者組織で検討した結果、パソコンを参考にしていない、という結論になり、会長は辞職することになりました。

 また文科省の事務次官という最高責任者が、大学などに補助金を出す立場の局長の再就職を斡旋していたことがわかり、辞職しました。文科省は40件近く官僚の天下りを行なっていたという調査結果が出ました。

—相次ぐ権威失墜の現象—

 この二つの事件の起こった集団は、職種も環境も異なります。しかし共通しているのは、公正に運営される完全無欠な集団を求めて連盟会長、次官ともに自分の置かれている立場が厳正で孤独なものであるということを忘れてしまっていたということです。厳正、孤独を忘れると今までの慣行や周囲の緩んだ気風に流されてしまうのです。指導者、責任者のあるべき姿は、流されることのない正義、公平、公正に裏打ちされたものでなければなりません。

 将棋は勝負の世界、妥協のない情、打算の入る余地のない厳正な世界です。

 文科省は大学受験、教育課程を司る厳正な役所のはずです。そこがこのような不正を行なっていたことの権威の失墜は国民の不信を買うものです。

—誰もが指導者になれるわけではない—

 私が心配するのは世間が経済のデフレ、ブラック企業、年金減額、原発再開、賭博解禁などで混迷している隙にこのような本来は厳正であるべき組織に緩みが出ていることです。

 指導者の資格は誰でも持っているものではなく、限られた無私の心を持つ選良しか持っていない、という現実を知るべきです。

 指導者教育を改めて考えさせられる二つの事件です。小池都知事、米大統領トランプ氏のこれからの指導者としての実力も含め…。

2017年1月21日 記