2019年4月7日掲載

新元号から始まる譲位の大騒ぎ

—軽薄な大衆の流転—

 4月1日以前と以後の新元号をめぐるマスコミの取り上げ方は、まさに大騒ぎといえる。便乗して本屋は万葉集を増刷し、食品関係もあやかろうとしている。大衆心理がむき出しになった状況を覚えておこう。日本中が新元号にあやかり大騒ぎだ。自然体で受け入れるべきだ。

 たとえはしっかりと当てはまらないが、幕末にお伊勢さんのお札が降ってきて、「エエジャナイカ」と声を出し、行列したという群集心理を思い出す。その気運で明治維新が起こったといわれている。日露戦争のポーツマス講和から帰国した小村寿太郎に抗議デモを行った群集とまったく似ている。日本国中が感情が噴出して火山群となった状態である。冷静さを失い、ともすると判断を誤る。

—新元号に続く新天皇継承—

 習慣として大晦日から新年に変われば、おめでとうございます、という。心の問題として自然の発露である。しかし今回の新元号は、新天皇と合わさっての行事である。それは天皇が崩御されず自らのご意志で譲位されるのである。平成天皇の譲位を、おめでとうございます、と言い切れるのか。祝えるのか。

 日本国憲法に基づく象徴天皇の姿勢を厳守しつつ、国民と交わり、戦禍や災害を見舞われた行動をどう評価して、おめでとうございます、と言えるのか。新天皇だけではない現天皇への配慮がなされるべきであろう。かつてこのような騒ぎとなった皇位継承はない。情報社会となり、国民も特にマスコミも情報を勝手に振りまくようになった。秋篠宮殿下のお嬢様の婚約に始まり、皇室の軽々しい在り方も好餌となり、皇室の清々しさは失せた影響もあろう。このままいけば新天皇、皇室も芸能界の醜聞も同価値の存在になる可能性もある。

 天皇は象徴、皇室もそれに準ずるのであるから、国民と一定の距離を保ちつつ庶民性をもつことになる。その一線を超えたら、天皇および皇室は象徴ではいられなくなる。節度のある謝意と祝いが皇室行事に好ましい。しかし度を超すと、その反響は国民性の評価へと向かう。国民のために均衡ある譲位、継承の天皇の交代であって欲しい。私は繰り返すが、現日本国憲法のもとでの天皇制は、憲法を守る立場からも静かに、厳かに国民は支持していくべきと信じている。程度をこえた大騒ぎ(あえて馬鹿騒ぎという)は天皇制を危うくする。

2019年4月4日 記