2019年4月23日掲載

テレビを消し、週刊誌を閉じ、古典にかえろう!!

—軽薄はもうたくさんだ—

 テレビにはあまり拘束されずにきた。だがこの頃気がついたことがある。それは昼間に韓国ドラマが複数局で放映されている。もうしばらく前に韓国の人気俳優のドラマで、韓国旅行の女性が増えると聞いたことがあったが国内のドラマにまで進出してきていたのだ。もう一つは東大生や京大生を売り物に娯楽番組が流行っていることだ。東大も京大も大学の国際ランキングで下がるわけがわかった。

 かつて白黒テレビが出始めたころ、私の家ではテレビをつける時間に制限をつけられていた。勉強時間が興味本位の番組で削られるためである。余分な時間の浪費は避けるという合理性もあった。

—テレビにでれば、偉くなった?—

 わが町を歩くと、○○テレビで△△さん来店、と宣伝している店がある。それを見て入る人もいるだろう。今度テレビに出るから見てねと電話をしてくる人もいる。

 テレビで取り上げられることで評価が変わるのか。そんなことはない。だが少し目先が変わる。誰でも犯罪で名前が知られ、広がることでなければ認められたい欲求はある。知られることが何か自分の実力のように思い違いをすることはある。俗にいう、世間からちやほやされるということだ。知られる、すなわち、有名になることは快感である。だが知られることでもノトリアム(悪名)とフェイマス(有名)と英米文化では使い分ける。

—テレビや情報を断って世界の古典文学へ—

 いま騒がしく取り上げ視聴率、購買数で生活する情報社会の企業は、人が犬を噛むことを願って報道する。普通でなく、珍奇を、成熟ではなく速成を取り上げる。彼らはそれで喰べているからどこまでも追及する。新しいことに振り回されることを反省し自分の頭や感性を大切にする時だ。

 世界の古典文学には人間のあらゆる生活、考えられる知恵が用意されている。たとえばシェークスピアの戯曲などだ。日常の行動、思考のきっかけはすでに日本の古事記、方丈記、源氏物語、近松門左衛門、井原西鶴に書かれている。ちょんまげからパソコンに変わっただけだ。

 内容のないテレビの娯楽番組や健康不安を助長する週刊誌を離れて、図書館に行って古典作品を選び借りてきてじっくりと活字を追いたいものだ。受験生のいなくなった図書館はいま春の光の中で私たちを待っている。

2019年4月20日 記