2019年5月16日掲載

境目を暈す(ぼかす)現代の危機!

—あいまいさの普遍—

 森友問題をはじめ真相がわからないまま時は過ぎていく。お茶の水女子大付属中の秋篠宮悠仁さんの机に刃物が置かれた事件は、容疑者が逮捕されたが、校長の責任はどうなったのか。皇室に関係し新天皇の祝賀の気分の最中の事件だ。11日に保護者説明会が開かれた。これも最高責任者の校長の処分をはっきりするべきだ。どこの学校であれ、校内に入る時、出るときの検問は必ずある。中学校の施設を借用して剣道教育しているとよくわかる。しかしこのお茶の水中学の場合は特別な学校であればこそ、特に注意をするべきであった。それを怠っていたために起きた事件であれば、その管理責任者は当然、責任をとるべきである。学校管理の最高の権限をもっていることの裏返しの責任が伴う。

—けじめはどこにいった—

 警察官が醜聞に値する行為をするとすぐ依願退職が発表される。警察の内規でもあるのか、明確である。これも責任の取り方であって、かすかに境目の見える処分の仕方である。企業などで幹部が勢ぞろいして何十秒も頭を下げ謝意を表する演出も鼻についてきている。誠意がないからである。自分もいつか立場が逆になった時の予防策というわけか、誰も厳しく改善策や責任問題を指摘しない。「けじめをつける」という、やくざ社会でよく使われる言葉なので民間になじまないというわけでもない。態度の問題である。社会で問題が多発するために一つ一つにかまっていられない風潮もある。しかし政治、社会、教育によらず責任があって社会の枠組みは保たれている。

—いいや、いいやの恐さ—

 いっぺんに戦争の話になる。わが国が戦争を起こしてきた背景も時流を確かめる鋭さがなくなり、擦り減った靴底をひきずるどうでもよいという感覚で軍部の戦争導入策を受け入れてしまった。批判力もなくなり、まあいいや、まあいいかと言いつつ戦争に突入していった。それも無批判に、中にはすすんで歓迎した風もある。他人事ではないのだ。いま私たちはその渦の中にいる。そう思うべきだ。安倍政権を持ち出すまでもないが、権力者は必ず国民の鋭い批判や直視をかわそうと多様な広報宣伝を駆使し、いいや、まあいいやという気分を作り出してくる。

—目前の本質を見抜く力を—

 列車に乗っていて目の前を通過する風景のように事件やできごとは現れて消えていく。さらにすべてに意見を持つことは不可能である。特に芸能、娯楽の情報社会の浮ついた派手さに溺れると、肝心な政治、教育、福祉などの生活意識がうすれてくる。何が大切で、何を消去するか見抜くのは教養や理解力である。そしてその根本には社会の骨組みである権限や権力と責任のあり様がどうなっているかの洞察力が必要となる。腰を落ち着けて考え、筋目を考える時間を持つこと、衝動では動かないこと、曖昧さを許さない努力を重ねることだ。

2019年5月15日 記