2019年5月31日掲載

終末からの思想をつくる

—後始末から物事を考える—

 しばらく前「トイレからの発想」という本があった。これは「きたないものは流して見えなくなればそれでよい」という、自分本位の見せかけの考えを正すものであった。たしか米国の学者の著書。もう50年も前であったと思うがここからずいぶんと勉強した。

 わが町のゴミ焼却場建設の反対運動、石綿問題、海洋ホルモン問題、核燃料の廃棄問題、医療廃棄物問題、ペットボトルの発展途上国への流出問題まで、「水に流せば、見えなくなって解決」という上辺の偽解決策を指摘し、行政に処置を求めてきた。

—陰に隠れただけで本質は変わらない—

 確かに表面上はかつてほど赤裸々な廃棄物はなくなった。しかしまだ地方では山奥に産業廃棄物、残土の不法投棄はある。石綿処理も徹底していない。核燃料は手が付けられない。そしてマレーシアなどへの不法輸出のプラスチックはマレーシア政府がわが国へ送り返してくるという。当然のことだ。私たちの目の前になければ、わが国から外国に送られればゴミは消えていたと思っていた錯覚が国際問題となっている。国内から国外へ被害が移っただけなのだ。

—地球的視野で自分たちの終末を計画する—

 いま国や世間はこの終末から目を逸らすためにオリンピックを誘致し、地球外への旅行を計画し、身近なことでは大食い競争、新製品の買い替え誘導などを演出している。それを無批判に受け入れることで判断力を衰えさせ、消費人間、消費社会をつくる。そして最終処理をせずに他国に処理を任せる結果になる。私たちが現代人として責任ある生活をするのなら、自国のゴミは自国で処理することを徹底することだ。快適さは自分、後始末は他人まかせという理屈はない。テレビ、洗濯機を買う前に、家のどこに置くのか考えるのとまったく同じだ。家に運び込んでから置き場を考える人はいない。浮かれて生活していると、この原則を忘れる。現代の落とし穴だ。

2019年5月30日 記