2019年6月25日掲載

自分の子どもへの性行為は無罪?

—人間と他の動物の違うところ—

 日本の裁判というか、この裁判官の倫理性というか常識は大いに疑わなければならない。訴えたのは娘。被告は父。訴状は父親からの性行為の強制。これを裁判官は無罪とした。その理由は娘には拒否したり抵抗する意思がなかったから、というもの。私はここでふたつの不審をもつ。

 一つは父(実父、義父を問わず)と子(男女を問わず)が性行為をすることは人類、文化的に許されない、と思ってきた。平たく言えば近親相姦ということだ。それに合意も拒否もない。許されるべきではない。

 二つ目は裁判官の判決理由の抵抗行為がなかったと認めた点だ。先にふれたとおり、嫌がる嫌がらないに関わりなく親子の行為は認められるべきではない、という文化的禁忌があった。これがなければ犬や猫と同じだということだ。いや犬猫もしないかもしれない。

—裁判官の狭量な社会性に驚く—

 よく公務員は思考範囲が狭く、硬く融通が利かない、と批判される。だが私は一概に非難しない。もし警察官、役人が規則に縛られなかったら世の中はまとまらない。定められた規則に忠実であることが、住民から公平な処置をもとめられる立場は当然である。しかし今回の裁判、裁判官は不同意の娘からの父親の行為を無罪としている。娘は上告するであろうが、名前、顔を出しての訴えであることから世間に衆知され、また裁判、報道の機会にさらされる。本人の抵抗、拒否を量るのは訴えた娘の行為がそれを証明しているではないか。この裁判官の育てられ方、教育をうけた環境に興味が湧いてきた。

—社会の柔軟性、自由と無秩序、放寿は違う—

 世の中は規制をなくすことを善とし、枠をはめることを悪とする傾向がある。大衆社会の無秩序な側面だ。先人、歴史、しきたりといったものを打ち破ることで社会が前進してきたと誤解しているふしがある。話がとぶが、親の子どもへの虐待や殺人、親殺し、SNSで動画を自ら拡げて助けをもとめる少女。麻薬を常用する芸能人、みんな自由をはきちがえ、気ままな思い付きの結集である。このたびの裁判官の狭量な判断、気ままに自由をはきちがえる国民。これは合わせ鏡として私たちの日常なのだ。よく言われる良識、常識が今ほど貴重と思われる時節はない。ここまでひどい世相であれば、少なくとも自分、そして影響を与えるであろう家族、近隣の人々とは、日頃生きていく上での価値を共有、確認しておく必要がある。裁判という公的な分野と親子関係という世俗社会の歪みを痛感した今回の事例を教訓にするべきである。

2019年6月21日 記