2019年6月25日掲載

大衆迎合社会の愚かさ1

 大衆という言葉を英語のポピュラーから訳出した人は誰か知らない。だが一般的に知られているのは1930年代のスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』を世の出した後であるには違いない。ヨーロッパの貴族、平民という階層では捉えられない産業革命以降の大量の賃金労働者の集団を名付けたものと思う。

 さて民主主義は一人を大切にする思想、階層に支配されない制度である。共産主義国を除いて世界に広がりその制度は効果を発揮している。

—社会制度と個人の逆転—

 かつて社会には階層があり、その上位階層の支配圧力で個人は動かされてきた。当時の社会制度に帰属する個人も制度の中にあった。だが社会が多様化して複雑になってくるに従い、個人も個性が主張できるようになった。この進行は個人、個性が社会を凌駕するまでになった。いわゆる個人主義の時代となった。どんな発言、どんな衣服、どんな髪型をしようとも親も社会も非難はしない時代だ。要するに社会の持つ規範、制約にこだわらない自由が個人の属性として認知されるようになった。しかし、ここには未だに続いている格闘がある。産業界と情報界だ。基本的に産業界は現状を維持しつつ発展しようとする。だが情報界は変化を作り出し、それに便乗することで成り立っている。変化の上に変化をかさねることで事態が守られているからだ。個人がそれぞれの発言、行動を多岐にわたって表出することでそれが社会変化となり情報界は潤う。このようにして社会を構成する制度よりも個人の規制のない発言、行動が社会の主流となった。すなわち大衆社会である。

—大衆迎合社会とは—

 このように定見を持たない個人の感情、主義を強く表出する集団は数となる。そして圧力となってそれまでの壁を突き破ろうとする。それに迎合して数を味方しようとする存在、それが政治である。かつて政治は数、数は力、力は金といった政治家がいたとかいなかったとか言われた。民主主義は数だ。数の質は問題としない。一票は一票だ。投票箱にいれた一票は絶対だ。だから投票所に駆り出せということになる。これが高じて数すなわち大衆に阿る風潮が民主主義の方向を誤らせる。いや、もうそうなっている。世論調査がその道具になっている。自分個人の意見に自信を持てなくなった個人が、自分以外の個人の集合である世論の動向に盲従する動機づけとなっているのが世論調査なるものだ。

—自分のために世論と輿論を分別する—

 ここにきて、今まで私が主張してきた感情、情緒で短期間に作られた印象の集合である世論ではなく、冷静で理論にもとづく時間を経た意見の集合である輿論を大切にする風潮が求められる。それには世の中を啓蒙する組織である学校、社会教育団体が将棋で言う「手拍子」を打つ習慣をなくす教育をするということだ。「手拍子」とは何手か先を読まず、目の前に来た駒だけに対応する一手一手のへぼ将棋をいうのだ。まさに今を啓蒙する組織である学校、社会教育団体が将棋で言う「手拍子」を打つ習慣をなくす教育をするということだ。「手拍子」とは何手か先を読まず、目の前に来た駒だけに対応する一手一手のへぼ将棋をいうのだ。まさに今私たちの身の回りは手拍子だらけの五月蠅(うる)ささをなくすために、世の中に警鐘を鳴らす人間の登場が必要なのだ。

 いま人気の子供向け時事解説の手法で評論している池上彰のような評論家でなく、大衆に冷水をかけても目覚めさせることの出来る言説と、それに頷かせるだけの行動のとれる人間である。あなたの身のまわりには候補者はいませんか。

2019年6月24日 記