2019年7月7日掲載

功罪相半ばするソニー・ウォークマンとその発展型

—自由は得たが他人軽視との軋轢—

 1979年に世界と日本中を驚かせた携帯出来る音楽プレーヤー、ウォークマン。40周年を迎えて銀座ソニーパークで特別展示をするという。約230台の歴代ウォークマンが紹介される。発売以来4億2000万台が販売された。カセットテープ、CD、MD、メモリー対応などを展開してきた。アップルの「iPod」に追撃され、スマートフォンで音楽を聴く人が増え、競争は激しいが生き残ってきた。

—自己中心的人間を増やした—

 当時町で知人に出会って挨拶するが目礼だけで、通り過ぎる。普段と変わっている、何か悪いことでも自分がしたかしら、と気にしたことがある。気が付くと耳栓すなわちイヤホンでウォークマンということがあって戸惑ったものだ。普及するまではそれほどでもなかったが、しばらくすると若い人を中心に耳栓(イヤホン)が普通になる。無表情、無言が当たり前になった。鳥の声も木の葉の擦れ合う音も遮断して、音楽や英会話などに集中していれば周囲には無関心になるのは自然だ。

—技術の進歩は良いことだけではない—

 個人的に生活を改善した技術の一つをあげれば、洗濯機だ。それまで洗濯盥(たらい)で腰をかがめ、手洗いであった洗濯は母親など女性の仕事として重い負担となっていた。これを機械で自動にすることとなり、女性史に特記すべき出来事だと思った。それ以前の電話もそうだ。だが人間の体力に負担をかける労働を軽減すること以外、それほど技術が人間性を高めていることがあるだろうか。我々の感性は技術の進歩とともに殺がれてきている。

 風や光、香などを甘受する神経は衰えてきているに違いない。自然(環境)との関わりもかつてより何分の一に減っている。自然から距離をおくこと、破壊することが現代だという了解もある。

—いまや無防備、無関心のきわみ—

 40年前のウォークマンが端緒となり、いま最新のスマートフォンは手元で情報受発信が日常である。歩きながら、あるいは自転車に乗って片手で操作している人は普通となった。誰も注意しない。私たちがよけて通ることで助長していることになる。目と注意がスマートフォンに集中すれば事故は必然だ。時折注意を呼び掛ける警察の警告はあるが、馬耳東風だ。10人中8人以上ともいってよい人がウォークマンの発展型のスマートフォンを持つ。街中での作法もわきまえず野放しである。他人への注意が減ることで防犯意識は薄れて犯罪も増える。

 便利さの裏側にある社会から挨拶が消え、注意力が失せ、社会性が個人の関心にとって代わられた。即時性のウォークマンを本能から補充しようとして、山歩き、ジョギング、食べ歩きが堰を切ったように流行っている。やはり人間は動物であって失ったものを本能として知っているのである。

2019年7月4日 記