2019年8月8日掲載

あらゆる犯罪をもっと厳しく罰するべき

—わがままな個人の氾濫—

 京都の岩倉具視の旧宅に落書きが見つかった。7月30日の新聞が報じた。文化財や街中の塀や壁にスプレーで乱暴に記号や下品な用語を書き散らしているのを見る。

 個人の財産を汚すれっきとした犯罪だ。出来心という理由は許されない。昔のことを言うと笑われるが交番の前を通る時に緊張したものだ。別に悪いことをしているわけでもないのだが、どこからきた衝動なのだろうか。

—注目、注意する存在が必要—

 悪いことをすると天から神様が見ていて後で罰があるよ、といったのは母だ。誰かがどこかで見ている考え、行動を支えたり、叱ったりしてくれる存在は必要だ。人間を道から逸らさない。

 岩倉具視宅の落書きをはじめ、他人の財産を傷つけることは犯罪であり、罪に問われるという当たり前のことを教えることが大切だ。

 ものわかりのよい大人、寛容ぶる見栄っ張り屋は、人間のわがままを助長し、社会を乱すことになる。

 人間はいつも善人ではない。時々悪いことをする。それを周りから抑制することが必要なのだ。家族、友人、教師、世間、法律などがその役目を果たす。だがこの存在が機能しなくなっている。本人や個人が大切、優先という風潮に染まっているからだ。例えば、電車を並んで待っている列に割り込んで乗る人間に、注意をして殴られて大怪我をさせられたというともう関わらない。殴られ損、ということだ。

—元石原都知事、心の東京革命運動の時、そして今—

 石原知事が他人の子も自分の子も区別せず、社会の迷惑は注意したり、挨拶をすすんでしたりしよう、という運動を提唱して、自治会や会社などに協力を呼び掛けた。私は議会で質問し、「注意をして危害を加えられた時、加害者は強く罰せられる、という裏付けがなければ、この運動は成功しない。人の善意だけを期待出来ない。」と指摘した。「社会全体がこの構えにならなければこの運動は続かない」と言った。しかし、なんの手も打たなかったので、いつの間にか運動は消滅した。今、「かんぽ生命」の不適切契約問題で会長や社長は辞任もせず改善をめざすという。犯罪とまではいわないが、このけじめのなさは日本の病理となっている。社会という私たちの住む殻が溶けて流れ始めている。この累積で、社会が大混乱に陥ることになるだろう。

2019年8月6日 記