2019年9月26日掲載

「表現の不自由展・その後」中止問題

—覚悟をして企画すべき筋—

 8月1日から、あいちトリエンナーレ2019が開幕されたが、表題の企画展が抗議の電話などで中止となった。少し前に埼玉県で憲法9条を詠んだ俳句を公民館ニュースで報道するのを市が拒否した事件があった。これも表現が関係した。民間のこの展覧会の責任者は芸術の非拘束性を知っていたのだろうか。

—芸術はとらえどころのない精神活動—

 小説、絵画で何千人を殺す場面を表現しても罪には問われない。だが町中で人を殴れば罪となる。当たり前のことだ。展示物が危害を加えるわけではない。韓国の作家による従軍慰安婦を感じさせる少女像が問題となり、抗議があった。もともと「表現の不自由展…」といった展覧会なのだから不自由にさせる勢力からの力が予想されなければおかしかった。

 結論をいうと、この企画と責任者と県は、今の国粋主義を甘くみていた。この展覧会が中止になったことで表現に不満をもって抗議をすれば芸術作品の展示は中止になる前例をつくった。企画担当者の責任は軽くない。

—芸術は表現は闘いである—

 画家、岡本太郎氏は、芸術は爆発だ、と言った。それは抑えきれない精神活動の発露としての芸術である。芸術は自己と社会との闘いという一面もある。1本の筆、小刀、鎚(つち)で表現する精神は外界への内面からの挑戦なのである。それを自分の好嫌で操作しようとするのは統制である。今、各種展覧会が耳目を集め、集客があるようだ。美、表現は穏やかな麗しい作品だけでなく、恐れ、嫌悪、醜さも含めた表現、精神活動であることを知らねばならない。

 今は秋。美術館を訪れる機会が多い時。今回のうわついた「あいちトリエンナーレ」事件を頭の隅において美術館を訪れたい。学芸員として一言。  

2019年9月23日 記