2019年10月15日掲載

馴れる恐ろしさ

—小さな積み重なりが社会現象となる—

 いま学童クラブから自宅へ帰る児童の送りをしている。シルバー人材センターの仕事。

 小学校低学年なので家庭の躾(しつけ)も個性も飾らずに出る。概していえることは、静かにしているのは女子。男子は活発か、活発すぎる。ダメ、と禁止や抑制されることが好まれない社会風潮が今風のようになっている。自由尊重ということだ。それは気ままの始まり。

—少しずつ地滑りしていく倫理観—

 指導する過程で叱り、苦言を言うことは当たり前のことだ。だがそれを言葉の暴力、と解釈する人人もいる。野放図に育てようとするのか。かわった性善説もある。人類も進化論では猿の発展したもの。そこに教育、啓発がなければならない。自分では厳しく接しないかわりに、スポーツ塾や学習塾でしっかり能力開発をしてもらうように親同士競い合う。厳しさをお金で他人に担ってもらうのだ。親として子に指導し、教育していく動物としてのあり様が失われてしまった。従って親の倫理観なども消えつつある。山が崩れていくようである。

—家庭がなくなり親子関係がなくなる—

 日々目の前で見ていると変化がはっきりと確認出来ないまま過ぎている。四季の変化とはまったく違う。家庭の役割である保育や躾などを社会に依存して当たり前とする社会は、親子関係が希薄となり乾燥した関係になる。家庭内の他人が普通となりつつある。その大本は自分、自分の家庭がなくなり、他社、他の家庭に慣れ従う自信のなさである。

 話題が飛ぶが今の日本の社会は日常に慣れて生活している国民ばかりだ。オリンピック、パラリンピック、携帯電話の新型発売、芸能人の結婚、離婚、皇室の結婚、増税。これを報ずる報道の過熱。これらに慣れて日日を送っている国民。自分を失い、国の行く先を思わずに日日を過ごす。馴れは狎れ(なれ)である。

2019年10月13日 記