2018年7月20日掲載

徒に民意(?)に妄従せず、時に民意に刺激を与えることも

—大衆迎合にならず考える政治—

 7月15日、小泉元総理が小沢自由党共同代表の塾で脱原発の講演をした。かつての仇敵同士ということで話題になった。

 柔軟な政界ではよくある関係である。私のいいたいのは、小沢代表の政治的存在である。かつて自民党・田中角栄元総理の側近、自民党幹事長を務め、新党をつくり、その間、選挙に敗れたら引退する、とか騒がしい政治家だ。その人が野党一本化が必要で、自民党を倒せる、と息巻く。

—もう誰も相手にしない—

 仏の顔も三度まで、とはよくいったものだ。この人は政界にとどまり、自分よがりの発言を繰り返して耳目を集めて満足しているようだ。かつて書いたように絵具の減算混合であっては、中身のない政党集団になる。

 昨年の衆院選の時にできた希望の党を見ればすぐわかる。政治家で生き残るために人気であった小池都知事のつくった政党に所属政党を出て集まった結果だ。

 練り上げた政策があったわけではない延命装置としての政党だったわけだ。馬脚があらわれただけだ。

 それを一年もたたないうちに繰り返そうという。

 多少政界に関心のある国民は小沢共同代表の真意は読みとっていると思う。

 本人の政界延命だけということだ。脱原発で野党一本化ということなら、それだけすなわち脱原発を実現することを主張する政党をつくればよい。そのような政党ができるのか、国民は脱原発だけで政治不満、課題を抱えているわけではない。ヨーロッパではシングル・イッシュー・パーティがある、というが成果が上がっているとは聞かない。

—政治教育のできる社会をつくるために—

 選挙がすべての根源となる。これに当選しないと公的立場で発言できず、国や地方公共団体へ影響力を発揮できない。そこで有権者のワガママと思えることにも迎合して選挙時に約束する。そして当選後、それに縛られる。民の声は絶対、といったのは絶対主義を革命する時の主張であった。

 自由の溢れている現代にさらに自由といえば放任になる。ここで世論(せろん)、輿論(よろん)の区別が出てくる。これは別の機会に譲る議論となる。誤解を恐れずにいえば、政治家は選良(エリート)である。それだけに国民に現実を知らせ、将来に協力してもらう勇気も必要なのである。これが政治教育なのだ。当然、国民・有権者から政治家が教育される。その相互交流が行なわれることが肝要なのだ。しかしいまは選挙に当選するために、脱原発を唱え、野党一本化を訴える政治家がいる。

 いまこそ政党、政治家は一人一人の国民の真意を地道に探り、ワガママを批判し、相互に教育しあう時が来ている。

2018年7月17日 記