2018年11月8日掲載

これからの政治研究 6の1
有権者教育にとどまらない政治教育を!

—まず児童会、生徒会の運営から—

 前回の衆院選から18才の投票権が認められた。この低年齢化には18才に下げられた世代からも、まだ早いという声があった。もちろん歓迎の声もあった。その時に私は、被選挙権も25才から23才に下げたらどうだと主張した。

—若年化、低年齢化より内実を—

 時代は閉鎖から開放に向かっている。情報公開などはたいへん好ましい。しかしIR法など、すなわち賭博などの開放はどうなのか。すべての開放と公開がよいとばかりいえない。行き過ぎれば無秩序な事例もあろう。

 投票権すなわち政治参加についていえば、かつての制限選挙—性別、納税額など—から勝ちとった普通選挙は与えられたものではない。

 あくまで権利獲得の意志が国民に充満し、政治がこれに呼応して実現している。

 しかし18才投票権は、時の政府がある目論見を持って主導してきたきらいがある。その証拠に該当する18才から20才の投票率が全国で50%に満たなかった。

 欲しくて得た権利ではなかったということだ。また投票権の意味が理解されていなかった、ともいえる。それは政治の役割、自分との関係といえる。

 自分の生活、価値観、誇りなど各様の満足とも関係する。多様社会では決めつけることはできない。それ故に本人の政治への必要性、また逆に無力感、失望感というものも作用している。

—政治教育は訓練でもある—

 私の研究対象であるC.E.メリアムはその著「シティズン・オブ・メイキング(公民の発達)」1931年でアメリカの徐徐に日常生活から社会・国家との関係まで発展していく市民教育について記し、各国と比較している。

 選挙に限らず、市民の公との関わりについて先駆的な意見表明となっている。この限りにおいてわが国においては今日でも公民権教育は寒寒しい限りである。

 メリアムのいう公民に成長していくのには訓練が必要であれば年少から手をつけることだ。

 それには私たちの身の回りには義務教育制度がある。そして児童会、生徒会が自主的な意思合意と統一の場としてある。これが形骸化して本来の役割を全うしていないことは明らかである。これを本来にそって機能させることだ。児童、生徒が校内での規則のもとで児童会長、生徒会長など役員を選び、PTAや学校と連携をはかる存在となることである。前回のこれからの政治研究でも書いた教育委員の準公選と同じで、わが国の教育はうたい文句ばかりで実行が伴っていない。

 それに魂を入れることから次の段階の有権者教育につながってくる。次回も引き続いてこのテーマで書こうと思う。

2018年10月22日 記