2019年5月3日掲載

天皇文化というあり方

—「令和」のはじめに—

 私は人生で二度元号が改まる時に出くわした。平成、令和。そのお二人の天皇と直接会話もした。

 今日5月1日から令和が始まる。

 明治政府から西暦と元号を併用しはじめた。キリスト者をはじめ西暦一本にまとめたらどうだ、という声も前からあった。元号と西暦の組み合わせが覚えにくいからである。ここしばらくは併用を公にもしようすることになる。

—日本史と元号—

 かつて天皇が政治をおこなっていた時代、それが武士になっても元号は使われてきた。元号と政治権力は分離しても支障はなかった。武士が幕府を開いても元号には手を付けず、天皇の権力を離れた文化、存在の権威を認めたわけである。あるいは利用したわけである。

 戦国時代、京都朝廷は荒れ寺のようになっていたにもかかわらず、誰も天皇を弑逆(しいぎゃく)しようとはしなかった。これは日本歴史の解かれざる不思議である。松本清張も司馬遼太郎も指摘しているところだ。

—時代区分としての天皇文化—

 かつて福田赳夫総理が日本の社会状況をとらえて「昭和元禄」と名付けたことがあった。元禄文化と言われるように、政治も経済も福田総理から見ると安泰である、と見たのであろう。

 徳川時代が260年から続いている間、将軍の名を冠して庶民は時代を認識していたが、公文書は依然として元号使用であった。

 平成時代は30年あり、それを集約する報道が、令和になってからもしばらく続くであろう。だがそれも内外戦地、災害地、福祉事業所などの慰問、文化活動の理解など政治と離れた秘話などの追憶に終始することになる。要するに日本国憲法で規定された範囲での国事行為(国に関係する事業)に平成天皇がどう理解を示したのかということだ。そして天皇の行為と発言が、すなわち平成の「天皇文化」の結果となり、歴史に残るということだ。これからも天皇文化の果たす役割は大きい。

2019年5月1日 記