2019年11月17日掲載

公私の混同は当たり前の安倍政権

—「桜を見る会」と安倍後援会の招待—

 森友・加計問題で昭恵夫人を含めた個人安倍の政治家としての判断とわかる権力の悪用。そして今回の「桜を見る会」の後援者の招待である。主催は政府で経費は予算化された公費である。これに個人後援会員を招待するのはまったく論外である。招待者は「各界の代表者等」とされている。議員それも与党議員に一定数の枠がある。自民党石破元幹事長も認めている。ひどい話で「みんなで渡れば怖くない」精神である。裾野は自民党・公明党の与党議員関係者と広がっているのではないか。

—倫理観なしのわがまま政府—

 選ばれた者の義務という言葉がある。実るほどに頭を低く、謙虚にということだ。長く総理大臣をしてくると回りも本人もぐずぐずになって骨なしになる。なれあいもある。やりたい放題というところだ。一事が万事だ。かつてデフレ脱却といって2%の物価上昇を緊急議題として黒田日銀総裁と2年後には果たす、といった公約は何回期待を裏切ってきたのか。国民ももう忘れてしまっている。それが恐ろしい。政治感覚が麻痺してしまっている。たしかに自然災害、オリンピック・パラリンピックの騒動、消費増税そして天皇の代替わりなど出来事が続いて認識が定まらない。それらと安倍政権のやりたい放題は関係があると思う。ここにきての相次ぐ閣僚辞任も「私に責任がある」というだけの表明で責任をとる具体的な給料の減額などはしない。ただ言うだけで何の反省もみえない。

 野党の攻め方次第で、公選法違反と地位の利用で総理は辞任、さらに議員辞職するところまで追い込むほどの大問題なのだ。

—国民とマスメディアの役目—

 国民が怒りを忘れてしまっている。隣国の香港の青年などの反政府運動ははっきりした要求と政策を求めて体を張ったものだ。そんな日本もかつてはあった。国家と民主主義を守るということは血を見ることもある、という原点だ。一部新聞が首相の一日の欄で「桜を見る会」の毎年の記録を一覧にして載せている。たしかに後援会の人々と前夜に会っている記録がある。各界の代表が安倍首相の地元に百人以上まとまっているわけがない。自分の人気取り、または選挙対策といえる。招待された地方議員が総理との距離の近さを誇示してスマホにツーショットを残していることからも明らかだ。馬脚をあらわしているということ。それにつけても首相の一日を報ずる各紙の政治記者がこのことを知らなかったはずはない。国会で野党議員が指摘して表沙汰になったので後追いで報道しているのだ。各新聞社も報道合戦なので購読数競争のニュース・ソース確保のためにわかっていても書かないのかもしれない。そんな驕りを感じる。かつて立花隆が『文芸春秋』で田中角栄のスキャンダルを書き、それが元で総理辞任になった。マスコミの強さがあった。今は寄らば大樹の陰で政府批判はニュース・ソースが断たれる恐怖で「桜を見る会」も触れずじまいなのだ。立花の鋭い指摘が政治を動かした時、記者あがりの評論家は言ったものだ。「そんなことは俺は何年も前からしっていたよ」。そんな言い訳をするのなら、なぜ自分が書いて政治腐敗を正さなかったのか。マスコミの役目だろうに。社会の木鐸(ぼくたく)の役割を知らない記者がふえているのが現状だ。購読者が減り、週刊誌やネットニュースに食われているのも納得出来る。

2019年11月19日 記