2021年1月12日掲載
コロナ対策とメリアムとビーアドの教育論争
かつて関東大震災から東京が立ち上がる時、東京市長の後藤新平に請われて来日し再建策を進言し、全国の地方自治体を視察して助言をしたのが、ビーアドである。日比谷公園にある東京市政会館は彼の仕事であった。東京の恩人とも いえる。この人間とアメリカにおける移民教育の論争を展開したのがメリアムである。
ビーアドは、本人や自治体から持ち上がる教育への期待に基づく教育制度を唱え、一方メリアムは、時間を考慮して上からの制度を主張した。この委員会の意見の多数はビーアド指示であった。
メリアムはただ一人、断固、反対して報告書のサインを拒んだ。この教育をめぐる問題はいま出版社に入稿済みの『メリアムの教育遍歴』(メリアム著の私の3冊目の翻訳書)に出てくる重要な逸話である。
このメリアムの頑なともいえる歴史観、教育観は、そのまま今のコロナへの国、地方自治体の問題解決の態度への批判として受け止められる。菅総理、小池知事などの、大局を見ずに、局所にこだわっている姿が、である。
メリアムのこの大局観は後に政府に影響力を与え、ケインズの理論をTVAの公共投資によるアメリカの景気回復へと繋がってくる。
主張や意見がバラバラで解決策が纏まらない時、指導者の良識と世界観と責任で決断することが大切である。よく政治家が自分の都合よい時に使う、結果責任はこのような極限に用いられるべき言葉である。
いまは菅総理、小池都知事の求める経済も命もという甘ったれた、平和ボケの指導者はいらないのだ。まさに命がけで国民、住民に自分の命,家族の命、知り合いの命を守る誠意、真面目さを持った指導者を求める時である。
わたしはビーアドの東京や地方自治体への適切な助言に感謝しつつも、メリアムの力による決定力を持つ、ある意味で国民を教育する指導力に軍配を上げる。何でもかんでもみんな揃ってという時間がない時の判断こそ、政治家に求められる資質である。そしてその判断に誤りがあった時は、潔く責任をとる覚悟を持っているかどうかである。すなわちその速を辞するという重大な覚悟である。いまわが国に目をやれば、まさに角を矯めて牛を殺す、という格言が、菅、小池両指導者にふさわしい形容である。今のコロナ対策の形容である。すなわちそこにはコロナも抑え、景気も維持しという甘えがある。コロナを抑え景気は二の次という厳しい選択ができる指導者は恨まれるかもしれないが、国民を生かす政治家といえる。すべては命あっての物種というではないか。ねえ菅さん、小池さん。
2021年1月7日 記