2021年3月12日掲載

あの時私は

 10年前の3月11日の午後2時過ぎ、都議会の本会議が翌年度の当初予算を中心に議決をし、「閉会」を私が宣言した直後、大きく議場が揺れた。議長席の左下に石原都知事が、眼鏡をはずして驚いた様子で大きな目で私を見上げた。揺れている議事堂を後にして、議長室に戻り挨拶をし、会派の控室にいった。物が落ちてきたり倒れたりはなく、地震の直後にはそれほど動揺は見られなかった。だが、それから30分を経過したころに都内の交通網の遮断が伝わってきた。テレビは信じられないような震源地の津波の被害状況を刻々と伝えていた。次第に都内でも被害の大きさが伝わってきて、夕方のラッシュ時にはほとんどの人が歩いて帰ることを余儀なくされ、自転車を買い求めて帰る人などもいたようだ。

 この東日本大震災に対し、私は議長として都議会に諮ってその総意で、岩手、福島、宮城の3県の議会に見舞金を持参した。3県とも非常に感謝された。

 あれから10年、まだ復興は途上だ。生活再建はもとより町づくリ、原発の後処理などまだ何十年も続く。

 自然災害の多い我が国は、災害に強いことを国の基本方針にするべきであろう。豪雨、台風、地震、花粉症など自然との付き合い方を幼稚園、保育園、小学校から学ぶのだ。まず生きることがあって、夢や希望に向かう意欲がわいてくる。津波てんでんこ、の東北の言い伝えは、10年前、確かに多くの命を救った。わたしたちは謙虚に過去から学ぶ姿勢を再確認したい。

2021年3月11日 記