2022年6月15日掲載

戦争の日常化と軍事予算の拡張

 テレビで戦争が報じられ3か月以上が経つ。まともな話では考えられないことである。あれよあれよ言う間に、ニュースのたびに欠かせない毎日の話題になった。

 衣食住の一環に戦争が割り込んできた。われわれは当事者ではないからと言えるだろうか。どこの国でも、銃や火力で人が10人殺されれば国を挙げての大騒ぎとなろう。

 いまウクライナで起こっている戦争は、その何倍とも比較できない大きさである。我が国の自民党をはじめ政治を動かしている勢力は、この機に防衛費予算を増やそうと目論む。ウクライナのようにならないようにするためだと、正当化する。

 ウクライナの戦争から学ぶことは、決して戦争しないことだ。当たり前のことなのに。戦争を口実に、脅してくる国があるから———かといってそれに応じてはいられない。

 それには私たち自身、ウクライナの国民を殺し、傷つけ、おびえさせている悪魔を生み出さないことだ。

 中国天安門事件の時、大通りを進もうとする戦車の前に立ちはだかり、身を挺して、戦車の侵攻を抑えた姿を見た。なんという勇気か。ひき殺してみろ、と抵抗する一人の男の人の姿があった。私は銃を持たずに、体張っての抗議する教養のある人間の態度を見た。

 生活者の姿だ。ガンジーの無抵抗主義の尊さをかみしめたい。乱暴者、殺人者、殺人国家には神、仏が必ず罰を与えると信じたい。中国も北朝鮮もロシアも哀れな悲ししい運命の中にある事を、子どもたちに学ばせなければならない。人を殺すことを正当化する国などあってはならない。軍事予算は戦争への短道予算である。 

2022年6月9日 記