2022年9月13日掲載

排他的で閉鎖的な「界」を考える

 自然界を別にして、界とは人間の世界である。誰もが知っている一つのまとまりである。このまとまりはその中で独自のそこだけで通ずる決まり、言い交しを持っている。例えば相撲、教育、会社などの経営、芸能である。

 同意した限られた者、同調した人間が集まる世界。この世界にだけに通ずる言語、振る舞いなどが通用する。いま誰もが使っている「ナマ」の情報のナマは、芸能界、放送局の内部で用いた隠語であった。ジャズをズジャとひっくり返して使い、自分たちの世界を特別視した人間もいた。この「界」がいま問題となっている。

 限られた世界では通じてきた習慣、作法がいま問い直されているのだ。何よりも問題なのはこの世界の常識は、世間の非常識ということだ。自分たちを特別扱いにして、世間、一般社会と隔絶させることで存在価値を高めようとする。排他的でもある。

 私たち学芸員の世界でいう、展覧会などの作品と鑑賞者の間に置かれた柵のような結界が当てはまる。閉鎖社会では簡単には近づけさせない権威主義の結界がいまだにある。外に向かっては特異な印象を与え、内には仲間意識で固める。警察も自衛隊も政界も教育界もスポーツ界もそうだ。

 その界の中の有様が外部の常識と異なる時に問題が起こる。東京五輪のスポンサー醜聞や陸上自衛隊の女性隊員への性犯罪、女性教諭の男子生徒との性行為など明らかになった。界の実情が明らかになってきて、閉鎖社会にいる人間自身も自分の環境を見る大切さが問われるようになった。その閉鎖性がまかり間違えば犯罪につながることを見過ごしてきたことの対策を早急に取るべきである。

2022年9月7日 記