2022年11月12日掲載

ふるさと納税の矛盾

 誰もが疑わない国の制度に不備があると思う。令和元年(2019年)から始まったいわゆる「ふるさと納税」は、国民に人気のようである。ところがこの取り扱いは寄付なのである。いつから誰が「納税」などと言うになったのか。納税は公で強制的、寄付は個人の自由行為で全く異なる概念を混同している。ここに国民を混乱させる因子がある。税を扱う財務省、地方税を扱う自治省ではなく総務省が所管していることからも、すっきりしない制度である。仕組みは寄付すれば自己負担額の2000円を除いた住民税、所得税の全額を控除されることになっている。年度末に確定申告する。

 自分の故郷に寄付を納めることで恩返しが出来るという、郷愁にも訴える。一見誰もが反対、疑問を挟む余地がないように見える。だが、「ふるさと納税」と言う言葉を、所管する総務省も、国税、地方税を所管する財務省も自治省も例えば「ふるさと寄付」と改めようとしない。納税と言う言葉で、国民に公の税金を個人で自由に使徒を決めているような錯覚や誤解をさせているともいえる。税の本来のあり方からすると、おかしなことである。

 税金は国民が均等に、あるいはその経済的環境に応じて負担するものと近代財政学では教えてきた。ところが我が国では地方税に限ってであるが、自分の自由に治めることを可能にしている。国民が富める自治体も税収の少ない自治体も出来るだけ差のない生活をするようにと地方交付税制度と言う仕組みを作ってきた。いったん集めた地方税を財政力に応じては補填するわけだ。この仕組みは機能していて地方の格差は開かないように工夫されてきた。もとよりそれに従わずに国民個人が好きな自治体に地方税を納めてその地の特産品などをもらうという。その特産品欲しさに納税する人もいる。これでは税金の公の意味がない。地方行政財政の崩壊と言えるだろう。自治省、財務省の公意識はどこに行ったのか。地方税に不備があればそれを修正すればよいのであって、国民の恣意で税金とも寄付とも区別をつけない形態のままを収納する矛盾は国家の仕組みにとって蟻の一穴になる。大衆迎合の行政と言える。

2022年11月8日 記