2013年3月9日掲載
夜回りの哲学 つづき
世の中には正しいと思う考えや、これが有効という意見がいろいろあります。
もう出尽くしているといってもよいでしょう。百人いれば百人のそれがあります。しかしそれを知って喋っているだけでは何も変化を世間に出せません。となれば行動すなわち体を動かして何かに働きかけしなければなりません。例えばゴミを捨てることは悪い、目の前にあれば拾うと誰もが教わり、そう思っているはずです。でも電車の中で空き缶がゴロゴロ動き回っていても見えぬふり、街に紙クズが落ちていてもそのまま通りすぎる。
それは自分の思いや考えを認識しているだけで少しも社会、世間に変化を与えていません。そんな毎日に満足するかしないか、もしそれを見逃している自分がいるとしたら、残念だと思いませんか。道に迷っているような人には声をかけ、予期せぬ幸福には感謝することは当たり前。そんな人生を考えたら、夜の一時間、火事を予防したり、夜道を帰る子どもや女性に少しでも安心してもらうためにボランティアをするのは私にとっては当たり前のことです。殴り合いの喧嘩に割って入って止めることもあります。そんな場面を通り過ぎる自分を卑怯、弱虫と思うからです。
政治活動もボランティアの最たるものです。
車内の空き缶、街のゴミ、倒れている自転車、夜回りなどすべて実行して正していくことが大切です。『努力論』の中で幸田露伴が指摘している「真善美」を求めることでもあります。少し解説しますと、真とは認識上の真、善は倫理上の善、美は審美上の美で、この三つで世界に普遍的に認められる価値をいいます。人生は小さな矛盾でも真善美の見方から正すことで平穏に過ごせるようにできているのです。小さな夜回り、それでも行動するしないで、天地ほどの差が世間に影響を示します。自覚したら行動!これも露伴の言葉です。
2013年3月7日 記