2013年11月22日掲載

またハンナ・アーレントについて

—露伴とアーレントの「凡庸」—

 前回ハンナ・アーレントがアイヒマンを「凡庸な人間」として規定し、ナチズムなど制度や機関の悪を指摘したと書きました。

 もとより彼女はアイヒマンを擁護したわけではありません。人間よりも社会制度や人間集団の恐ろしい悪に焦点を当てたものです。

 さてアーレントの「凡庸な人間」について、2012年に出版した幸田露伴の『努力論』に「凡庸な資質とすぐれた功績」という章があります。私が現代語訳した時に、「凡庸」があまりに非日常的な語句なので「ありふれた」と訳しました。

 この凡庸はいいかえるとこれも今はあまり使われていない「平凡」ということです。どこにでもある、どこにでもいるということです。普通の、ありふれた、といいかえられます。

 そこで私は「ありふれた」としました。

 露伴は「凡庸な人間」が功績をあげるためには「…いたずらに第一級の志望を抱くよりは、各自の性格に適応するものの最高級を志望したら、必ずその人としての最高の才能を発揮して大なり小なり世の中に貢献できることになるでしょう」と結んでいます。

 露伴は個人の意思の力に肯定的に期待して、自分の性格を理解してそのなかで最高の希望に努力したらどうか、と提案しています。

 アーレントは制度、組織の力の悪の面も認めて、個人、アイヒマンの限界をも認めるという立場です。

 個人がどのように努力しても全体主義のような強大な圧力をもってすれば無力であることを指摘しているのです。私は自由主義国で当時、連合国側のフランスの強制収容所に拘束されたという彼女の合点のいかない体験が、現実の権力、政治の闇を知ったきっかけになったと推理します。そこから導き出されたアイヒマン凡庸論が、アイヒマン極悪論に批判を受けたのです。

 アーレントは大衆論を語っていませんが、まさに大衆の属性が明確にでてきた事例が、アーレント攻撃だったのです。大衆論に関心のある方は、オルテガの『大衆の反逆』、フロムの『自由からの逃走』、ホッファーの『大衆運動』が参考になります。

2013年11月19日 記