2015年10月24日掲載
光派私説
学芸員 和田宗春
—はじめに—
本阿弥光悦が京都の北部にある鷹峯一帯に一家、職人を引き連れて芸術村を構えたのは元和元年(1615)です。
板倉伊賀守から二条城に呼ばれ、家康の「丹波より京都への道に、用心あしく辻切追はぎをもする所あるべし、左様の所を広々と取らせ候へ、在所をも可二取立一者なり」という指示を伝えられて税金も取り立てられず自由空間を得たのです。
その広さは東西二百間(約360m)、南北十町(約1,100m)でした。
この範囲に55軒が移り住み、本阿弥の家業である刀剣鑑定などに関係する芸術家と生活したのです。
この地から後に名を成す俵屋宗達、尾形光琳、乾山、酒井抱一につながる桃山文化の源流が始まるのです。これから何回かにわたり、本阿弥光悦を中心にした芸術と権力、本阿弥光悦やその母・妙秀の言動などについて学芸員としての立場から記していきたいと思います。
参考文献については最終回に公表します。
それでは次回、大名でもない本阿弥光悦になぜ家康という絶大な権力者の方から、広大な自由地を世話することになったのか、という謎に迫ります。
2015年10月21日 記