2015年11月9日掲載

光派私説2

学芸員 和田宗春

 まず光悦が鷹峯の土地を徳川家康から下賜された理由です。本阿弥行状記によりますと家康が大坂夏の陣を終えて帰る時に、板倉勝重に、近江、丹波から京都に入る途中に、「辻斬り、追い剥ぎの出る物騒な土地があるのでそれを在所にしてよい」といいつけて、光悦は頂戴したといわれています。そこにははっきりした理由は書かれていません。ひとつだけあります。家康が竹千代という幼名の頃、駿河の今川義元に人質として捕られていた時に、刀、脇差の鑑定で有名だった光悦の父・光二が義元に可愛がられて滞在しています。そこで竹千代に脇差を作ってやろうとして光二に木型の模型を二本作らせていますが、そのうちの一本を本阿弥家でしばらく保存していた、ということです。この時に家康と本阿弥家のつながりはできています。ですがこれだけで、冒頭の鷹峯の下賜になるとは思われません。

 いままでに学者は諸説を出しています。だいたいこの「旧知の仲」説が多いのです。薄弱です。

 私は怨念回避説です。光悦は窮地説のほかに、絵師の俵屋宗達、貿易商の角倉了以と力をあわせ木版本を出版します。これは庶民に「徒然草」などを普及することになり庶民の読み書き教育の走りとなるのです。この事業の褒美だという説です。私の異説は、他の二人にはどんな褒美があったのかというと何もありません。また当時の家康に文化的視点が強かったとは思えません。私の怨念回避説を次回からいたします。御期待ください。

2015年11月5日 記