2019年3月6日掲載
本阿弥光悦の五つの謎に迫る!
—連続4回、各回90分間講座、充実して終わる—
2月9日から毎週土曜日に行われた文京学院大学の生涯学習センターでの光悦講座は、19名の受講者で途中休憩なしという熱心さで進行し、3月2日で予定通り4回を無事終了した。
光悦は、徳川幕府と朝廷政治の狭間で活躍した。刀の鑑定、磨ぎ、ぬぐいを家業とする本阿弥家の分家であっても、光悦は寛永文化を作った主人公の一人であった、と言える。
私が『本阿弥行状記』を全訳した理由は、それまで上巻のみしか公にされなかった行状記に中・下巻を揃える目的があった。原著者は中・下巻は付録であると言っている。それをまともに受けて今日までの学者たちは訳していなかった。それでも『行状記』と表題をつける。つまり三分の一だけの『行状記』ということであり、羊頭狗肉というわけだ。さらに人がその上・中・下巻の内容を読めば、いま言われている「琳派ではなく光派」という私の主張に首肯すると思った。
—拡大も縮小もせず—
ある人の伝記、小説などを読むとそれに没入して他に目が向かず、その人物や小説を顕微鏡で見るように拡大して評価してしまう傾向がある。いうならば過大評価ということだ。例えば光悦は日本のダビンチだ、という人もいる。そのたとえが的を得ているかどうか、正確なのかどうか、ふさわしいのかどうかを静かに評価出来なくなるということだ。また逆に光悦は何もせず職人や俵屋宗達などの力で作品を残しているのだからコーディネーターだという人もいる。これでは縮小だ。
—私の光悦論とこれからの目標—
私が講座を通して心掛けたのは、光悦の置かれた時代の正しい見方から、光悦とその家系を分析しようとした。性格や個性はその次だ。
民藝運動の柳宗悦の光悦の船橋蒔絵硯箱への不自然さの指摘など、批判も紹介した。また権力者と上手に付き合う政治的態度や、頑なな宗教心からくる強さや孤立を恐れない精神なども伝えた。
急がれる課題として、光悦には絵画が少ない、と言われてきたがどうなのか。この指摘に対応することはキュレーターとして率先して光悦の絵画を発掘することだ。
毎土曜日4回連続のこの講座の受講生はすべて社会人であったが、ほとんどの人が好出席であった。熱心な方々が多かった。受講を機に、さらに光悦をはじめ日本文化、芸術への関心や理解を深めて欲しいと願った。その時にはまず大状況の時代や環境からその人物を観ていくことが大切だ、ということだ。まさに時代が人をつくる。
今、私には光悦に関係する新しい企画が浮かんできている。実行する準備や環境作りをどうするか考慮しているところだ。またお知らせする時がくるであろう。大学をはじめ関係者の皆様に感謝いたします。
2019年3月2日 記