2013年11月19日掲載

知られることの快感と空しさ

—情報社会の落し穴(2)—

 知られることとほめられることは違います。

 最近、コンビニの従業員が冷蔵庫に入っている写真をインターネットに流したりする事件が連続しました。これは知られたい心理に基づくものでしょう。

 店の受ける信用失墜、自分の軽々しさよりも人に面白い場面を提供して驚かしているところを知ってもらおうというつもりだったのでしょう。しかし社会の反発は厳しく、店をやめさせられ損害賠償を求められたりしています。知られるということは表面的、一時的なものでそこに人間の尊い気性を刺激するものではありません。

 認められるということは、まず知られる段階があります。その先に人に考えさせ、了解させるものがなければなりません。

 見て聴いて触れば知ることはできます。それに加えて考える時間がなければ認めるところまでいきません。

 考え了解する時間がなければ、その時間を作らなければ知覚という表面的な反射運動で終わってしまいます。

 知られるだけで満足する、逆にいえば知るだけで満足する人々がいれば双方の関係が成立します。

 知られる・知る関係ということになります。

 いまはこの関係だけで、国も社会も流されているように思います。

 知られればよいとする人々、知ればよいとする人々が作る国や社会が情報化社会というものの一面でもあります。(次回へ)

2013年11月16日 記