幸田露伴の『一国の首都』研究

―北原白秋『柳河首都建設論』と正岡子規『400年後の東京』とあわせて―

和田宗春

はじめに

 私は平成25年(2013)6月に幸田露伴著『一国の首都』(1)を現代語訳している。

 露伴の書いたこの本がかねてから存在し、露伴なりの個性としての主張で貫かれていることは承知していた。明治時代の創成期に、官僚や学者でもない一文学者が首都とそこに住む住民に対する注文を明記することは異端である。このように先駆的な発想を持ち得た露伴の発想の原点については、露伴の『少年時代』(2)を参照して欲しい。

 さて東京都の議員を勤めていた関係もあり、まさに一国の首都がどのようにあるべきかを課題としてきていた。歴代の都知事や都議会議員は首都としての東京を常に意識しつつ、地方都市とは異質の都市構造と住民意識を心がける習慣が出来上がっていた。

 国内の他都市とは比較にならない産業、人、情報の集中は、国際都市としてロンドン、ニューヨーク、パリなどとも比較されつつ、その構造、便利さ、安全、清潔が問われてきている。このように東京が国内外の他都市とは異なる存在であるという宿命はどこからきているのか。先進諸国に追いつくために近代国家としての制度や法律などの整備を急ぎ、明治維新後の政府関係者の海外主要都市への派遣、留学などが大きな動機になっている。

 明治維新の不平等条約の改正時期に、鹿鳴館を利用して諸外国の要人を接待したように、追いつけ追い越せ精神が日本人、都民の脳裏に焼きついて国民性にまでなっているような状態である。

 露伴の原書を訳してみて、東京都の2020年のオリンピック、パラリンピックの招致についての国民的、都民的感情の特性としての江戸ッ子精神を露伴は見抜いていたと思う。

 さらに文学者としての露伴の首都論に直接関わりを持つものではないが、明治時代同期や大正時代の文学者の都市論・首都論について正岡子規、北原白秋の両人の記述を中心にして比較検討する。

 なお本書について国際日本文化センター教授 白幡洋三郎、詩人、評論家 大岡信は論文と規定している。

1 首都東京誕生の経緯

 明治維新が成立してから東京の町作りはどのように進められていったのであろうか。

 明治元年(1868)3月に江戸薩摩藩邸(港区)で、官軍の西郷隆盛と旧幕府の勝海舟の会談が行われ、いわゆる無血開城が成功したのである。すなわち江戸がそれまで蓄積してきた江戸城を中心とした統治、文化などの機構が破壊されずに、温存されたということである。ここで歴史上にあらわれた遷都論、奠(てん)都論について触れておきたい。

 新政府にはそれまで大久保利通らの大阪遷都論、もとより京都存続論もあった。明治元年(1868)3月には前島密が東京遷都論を、同じく4月には佐賀藩士の大木喬任と江藤新平が、西の京に対する東の京、すなわち東京を改置するという『東西両都論』(3)を岩倉具視に建白している。また同時期に木戸孝允は京都すなわち帝都、大阪すなわち西京、江戸は東京とすることを建言している。この時期に要するに数多くの遷都論が朝野を問わずに噴出してきた。

 265年の長期政権が倒れたのであるからそれまで鬱積していた反発や発想が一気に出てきたのである。江戸時代には象徴としてまた形式として朝廷があり、実質は江戸幕府の支配であった。この微妙な二重構造が長期政権を作ってきていた。新政府内もそれが維新によって形式も実質も朝廷に一本化さえたわけであるから両者を取り入れる東西両都論が妥当であるかに傾いた。同年四月に東西両都論を政府決定している。そして明治元年(1868)7月17日、まだ完全に統括しつくしていない関東、東北、蝦夷の支配を徹底させるために、関八州鎮將をつとめている三条実美や大久保利通らと協議して明治天皇の東幸を決定していた。その詔書は江戸を首都とする必要を簡潔に記している。

 江戸ハ東国第一ノ大鎖、四方幅湊ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ニベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京ニセン、定朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ(4)

 このことによって「東京」と呼ばれるようになったのである。

2 奠都(てんと)への道

 同年8月27日に明治天皇の即位式が京都御所で行われ、9月8日に「明治」と改元されている。明治政府が旧幕府をはじめ旧勢力に対して恐怖や不安を感じ、神経を使い早急に統括体制を整えようとする姿勢がはっきりと見受けられる。それと諸外国からの圧力を阻止し、殖産興業を急いだのである。その後9月に明治天皇の后である京都にいた昭憲皇后が東京に行くことが発表された。 天皇も東京にいき、皇后までも、となると「遷都され京都は都でなくなる」という京都市民の危機感があり、東京ゆき反対の要望書がでる始末であった。京都府は次の年、天皇も戻って大嘗祭をやることとなった。しかし予定されていた翌年、明治3年(1870)には戊辰戦争と凶作のため、天皇の還幸は延期され、今日まで続いている。京都の財界を中心に天皇を京都に呼び戻す運動があるのは、これを根拠としているのである。さらに東京都の『東京百年史』(5)は東京遷都といわずに東京奠都と表現している。「遷都」は都を移すことであるが、「奠都」は新しく都を建設することである。東京は京都から都を移したのではなく京都の他にもう一つ都を造る「奠都」という形をとったのである。

3 新首都の地政上の統治力

 265年の長きにわたって江戸の首都機能を担ってきた支配の構造は新政府にとっても否定できない蓄積であった。先に述べたように、何よりも天皇の所在地が確定しないという新政府の基盤の不安定さの中で、旧幕府に変わる政権を早急に機能させなければならない。よって必然的に明治政府は追い込まれた。旧幕府勢力も牽制しなければならない迅速性が求められていた。そこで新政府は旧幕府の江戸における蓄積された知識や行政管理方法を活用したのである。まだ国情が不安定で、内乱があちこちで暴発している時である。

 明治元年(1868)5月には戊辰戦争が抗争中であったが、行政府としての江戸府が設置された。あくまで旧幕府の治安対策を急ぐことが目標であった。また同年五稜郭の戦いもあり戦いながら新政府を樹立する忙しさも加わった。

 このように地政上の江戸すなわち東京は、日本の南北のほぼ中心に位置して全てに効率的であった。

4 新首都と旧幕臣の行政能力

 さらに人材としてもすなわち明治政府の官僚も旧幕臣から登用していった。

 明治政府の官僚の構成からみて旧幕臣から移転した数はどのようになるのであろうか。

 明治5年(1872)の『官員全書』を分析した『江戸時代への接近』の中の三野行徳が書いた「幕府官僚と維新官僚」(6)によれば、当時の明治政府の官僚4145名のうち旧幕臣は1299名(約31%)であった。薩長土肥出身者は886名、約21%で、明治政府の実務を旧幕臣が担っていたことになる。省庁別の旧幕臣の割合をみても、外務省が38%、大蔵省が43%、海軍省が34%、文部省が32%など国家の中枢を占める省庁で30%を越している。

 明治政府ではまかないきれない人材、そしてその能力、組織への忠誠心などは旧幕府によって受け継がれてきた人間力であった。明治政府も人材を留学させたり、視察させることで文明開化の努力をするのであるが、まず国内を治めていく目の前の対応の多くは旧幕府が培ってきた二百六十五年の伝統に頼らざるを得なかったのである。

 以上見てきたように、江戸幕府から明治政府に政権は変更されたが、人材の変更はなくそのまま継承された。

5 藩邸跡地の利用

 東京に首都を定めてその運営を考えたときに、江戸の区域の60%を武家地が占有していた、その大部分は大名屋敷であった。明治2年(1869)の藩籍奉還で放棄されたあと、敷地はどのようになったのであろうか。(7)

 新政府の官庁は藩邸跡地を利用している。主なものを上げてみる。

外務省
旧福岡藩邸
大蔵省、内務省
旧姫路藩邸

 さらに旧幕府の大名の庭園はほとんどそのまま活用されている。

浜離宮(中央区)約75000坪
旧徳川家
小石川植物園(文京区)
旧徳川家

などとなっていて幕府の所有する土地を没収、活用することで急ごしらえの新政府の首都としてのたたづまいを糊塗していたのである。
さらに勝海舟がまとめた江戸時代の財政資料『吹塵録』(8)の中の「江戸人口小記」によると、幕府関係者が東京から立ち退いたために、人口も激減している。徳川慶喜が明治2年(1869)に静岡に移住したがそれに従った幕臣は14000家、国元に帰った諸大名や家臣が20000家、横浜へ移住した江戸町民は5000から6000家といわれている。諸大名が国元へ家臣とともに移住してしまった東京は、60%を占める武家屋敷の多くが空家となったわけである。

 このような時に東京全体をどのような町にするのか、といういわゆる都市計画、首都計画が出されねばならないのだが、東京府知事の大木喬任は殖産興業を優先した。明治2年(1869)の当時、我が国の外国貿易の輸出品は生糸とお茶であったので藩邸跡地に桑畑、茶畑を推奨した。藩邸跡地の払い下げ、貸付などが行われ開墾が進められていった。しかし省の配置が進み行政機能が拡大したので、この開墾事業は第4代東京府知事由利公正によって廃止されたのである。(4)都市計画は日の目を見ることはなかった。

注)

(1) 幸田露伴著『一国の首都』1993年5月17日刊 岩波文庫

(2) 幸田露伴著『露伴全集』1954 岩波書店 第29巻「少年時代」

(3) 佐々木克著『志士と官僚 明治を「創業」した人々』2000 講談社 50~51P.

(4) 大石 学著『首都江戸の誕生』2002 角川選書 239~240P.

(5) 『東京百年史』東京都刊 第2巻67~68P.

(6) 大石 学編『江戸時代への接近』2000 東京堂出版 三野行徳「幕府官僚と維新官僚」 137~139P.

(7) 江戸東京博物館刊『参勤交代―巨大都市江戸のなりたち』(財)東京歴史文化財   団139~154P.

(8) 勝海舟著『勝海舟全集』 1974 講談社 第4巻424~426P.