第3章 『一国の首都』

1 幸田露伴という人物

 幸田露伴は昭和12年(1937)に第1回文化勲章を受けている作家、考証家である。この作家があろうことか東京についての、首都についてのあり様やそこに住まう人間の気構えについて意見している。作家とは個人作業であり、まして明治初期、中期までは自然主義が主流となっていた。この時代の代表作家とはよく紅露逍鴎といわれる。尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遥、森鴎外である。それぞれが日本文学の発展に大きな功績を残している。

 国家的な評価としての文化勲章を受けているのは幸田露伴だけである。このようにわが国の文学では屈指の存在である。思想的には百科全書派のように森羅に通じていた。

2 『一国の首都』掲載の不思議

 それだけにとどまらず、ここで取り上げる『一国の首都』では町づくり、都市計画などにも付言しようとするのである。最終的に明治32年11月までの数年にわたって発表したものである。しかし私が現代語訳に参照した岩波書店版のこの表記に白幡洋三郎は疑義を唱えている。雑誌『新小説』に数回にわたって掲載され、最終回は明治34年3月号になっているというのである。明治32年(1899)11月の岩波書店版と異なっている。白幡説が正しいと思うのだが、岩波書店の対応を待ちたい。

 露伴は電信学校で学び、電信技師、電話交換手になるための電信修技学校を卒業し、北海道余市に赴任している。もとより建築、工学ではないが、今で言う電気工学の初歩は身につけていたに違いない。大切なことは理工学的な物の見方、思考方法が身についていたと思われる。露伴が小説にありがちな感情、感覚、情念といったいわゆる形而上の事象に偏らず形而下の事象を著作にもとりあげていることにつながっている。

 『一国の首都』で、露伴は首都の首都に生活する人間のあるべき姿を強調している。なぜに作家としての露伴が、江戸から東京に変わって首都やその住民の生き方、考え方にこだわりを持つのか総論的に言えば、都民の自覚、江戸ッ子気質、それとしばしば触れる自我同一性(アイデンティティ)との関係まで関連してくる。

 まず江戸幕府から明治政府に変化していく政治的な過程という大状況を、次に露伴の個人的な出自、環境を検討していきたいと思う。そこに見えてくる江戸時代から明治時代に押し流されていった一般庶民の姿を、江戸幕府に共鳴するというより、明治新政府の不安定さに危惧をもつ露伴を通じて明らかにできるであろう。

3 江戸ッ子気質

 幸田露伴が明治32年11月までに書き終えた『一国の首都』は、江戸、東京に対する愛情を前提にしている。その上で自覚、江戸ッ子気質、物事に積極的に当たる意欲をもって、首都を守り造っていくことを唱えている。

 たとえばその『一国の首都』の中で“自覚”については4頁の間に25回も繰り返されている。この執拗さはどこから来るのか。同じく『一国の首都』で用いている“べらぼうめぇ江戸っ子だい”の江戸ッ子精神は、露伴の家が代々旧幕府の江戸城に登場する大名の食事の世話係を務めるお坊主衆であったことと無関係ではない。ちなみに江戸ッ子について触れてみよう。

 江戸学者の西山松之助があげる、江戸ッ子の5つの条件(15)がある。

  1. お膝元の生まれ。金の鯱(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びてお膝元に生まれている。
  2. 金ばなれがよい。
  3. 乳母日傘で高級な育ち。
  4. 生粋江戸っ子のはえぬき。
  5. 「いき」と「はり」を本領とす。

一言で言えば斜に構えて、抵抗精神があることである。

 お坊主衆に「江戸ッ子」が馴染むかどうかはともかく、露伴に一貫するのはこの意気なのである。この意気を、江戸時代、明治時代を生きてきた人々に求めているのである。

 明治になってもかつての江戸の人間は卑劣なことをしない。明るく、弱い者を助け、強い者をくじく任侠心を持ち、面目を保ち、江戸や東京を愛する人間であるべきというのである。また意気を持つことにこだわっている。露伴は『一国の首都』で「詩人および小説家達はややもすれば都府を罪悪の巣窟のごとくみなし、村落を天国の実現のごとく謳歌す」と切ってすてている。明治の同時代に人気のあった国木田独歩が明治32年(1899)に出版している「武蔵野」を意識していると思われる。ちなみに独歩はロシアのツルゲーネフに理解を示し、自然主義的な田園風景を「武蔵野」に打ち出している。独歩はひっそりと奥まった田園生活こそが好ましいと言っているのである。露伴はこのような隠居然とした生活には断固反対なのである。文学者といえども国家、社会に関わりを持ち、洗練された生き方を目指し善美を求めるべきであると強調する。そこでこの『一国の首都』でも自然主義の方向を向いている当時の詩人や作家を指弾しているのである。

4 露伴の『一国の首都』

 露伴は明治新政府を構成する薩、長、土、肥、出身の幹部の所業に鋭い指摘をしつつ、具体的な現状改造の考え方、方法を展開していくのである。以下は露伴の主張の要点である。

 江戸から東京になってまだ30年しか経っていないが、何かの変化が出てきてもよいはずである。

 江戸に比べて東京は、形のある物すなわち建物、道路、役所、河など進歩したが、無形の物、人情、公徳心では堕落している。

 江戸から東京に変わって、無形の道義心が世界にも共通して物質の進歩に反比例して廃れている。

 東京が江戸にくらべて風紀が頽廃していれば、都民は東京にそして全国に罪を負う。そして江戸の破壊は、腐敗や崩壊、政治の圧力から生じている。

5 薩、長、土、肥、の武士の無自覚

 東京を建設したのは表面上は明治政府である。優勝者の立場にある薩摩、長州、土佐、肥後の武士は、東京に対する自分たちの立場は手の先ほども自覚していなかった。一方で政争を繰返し東京の非公認妻である妾、つまり「権妻」を日常化するまでに姦淫を世間に広げていった。木戸孝允、大久保利通の存命が長ければ、世の中は変わっていたかもしれない。東京は、江戸末期の堕落から東京誕生当時の愛情のない人々に託された悲劇をこうむったのだ。河竹黙阿弥の戯曲『金の世中』が後世に残るようになったのも都民が首都を愛そうと自覚しない弊害である。都民生活でも花札賭博が流行し、首都の真面目な人々が、破落戸(ごろつき)の行動や精神をまねるようになっていた。明朗、常識的な人には不必要な待合茶屋が神社、仏閣より多くなった。

6 風俗が支配

 江戸時代には足袋も履けなかった芸妓を、良家の子女が手本とするようになった。劇も残酷劇や感情に訴える事実劇が行われている。有名人は金の奴隷、得体のしれない壮士、幼女は少年の俳優に憧れ、青年が元禄時代を慕い、子どもがたばこを喫い、妖婦は名誉ある人の集会に出て高い席で来賓と親しくしている。新聞はただの商品となり、教育は営業、生徒は教師を雇い人のように見るし、公共事業の汚職はしばしば発覚するようになった。非道徳な重罪人が大目にみられ、純朴で理屈に疎い夫婦が酷評されたりしている。僧侶は自分から教養や法規を蔑視していると認め、読経を商売にしている。教理不明の宗教が中流以下の人々に流行し、占いをするものが一家を構えている。媚薬のようなものが新聞に宣伝され、過ちを改めようとすると友達を失う。悪行でもやり遂げる。狡猾に上手に奪えば褒められる。このようなことはすべて首都を愛そうと自覚しないものが醸し出すものだ。

 では未来に希望をもって東京を首都にふさわしいようにするのにはどうしたらよいか。首都を、全国の指導者、代表者、最善の善美に溢れる天皇の居場所にふさわしいところとし、国民の風俗や礼儀正しさの源泉で模範であるとするべきである。その答えはただ一つ“自覚”である。自覚とは真の智や徳や情で大きな力である。旧江戸幕府の良さ、とりわけ江戸ッ子気質を取り上げて、明治政府の治め方などを木戸孝允、大久保利通などの死にからめて批判する。

 露伴も子規や白秋のそれぞれの故郷への思慕、郷土愛を基盤とした都市間比較、首都論とは共通である。自分の帰属していた旧江戸幕府にある重厚さ、武士道に見られる倫理、道徳、礼儀正しさに対し、明治政府の軽々しい責任のなさが残念であった。幕末の堕落が江戸時代を終わらせた。

7 『一国の首都』に見る首都機能のたたずまい

☆“自覚”が解決策

 しかし新政府のもとでの庶民生活の激動、風紀の乱れ、金権主義は、有形の変化を評価しつつ無形への嘆息となって明らかである。その上で自覚こそがすべての解決策である。露伴の首都論の骨格はこの“自覚”にあるといってよい。

☆理想社会

 次にもとめられるのは、理想首都である。これは個人個人の知識の多少、意思の強弱によってあらわれるのであるからそれぞれによって異なるのは当然である。ところが同じ時代、環境にいるのであるから、無数の共通点があるので理想首都に対して少しばかりの相違があることはそれほど重要ではない。

☆東京を野原に戻したい人

 東京を昔の野原にしたい人もいる。理想を唱え、実現しようとするのを無益な個人行動とみなしている。たとえれば都市改造の区市改正を不要という人、鉄道や馬車は害が多いと反対する人もいる。最近、東京湾造を必要ないという人もいる。昔の秩父大宮平、相馬の雲省野などは詩歌ではよくとも、羨ましいところではない。武州の吉見、豆州の柏谷な竪穴式住居は自然に近いが誰もが東京をこのようにしたいとは思わない。世界の東京を追求するのは、冷静な知識からすれば妥当な判断、暖かな感情からみても極めて自然な要求である。

☆施設の規模

 施設の規模を大きくしておき、将来を配慮しておくべきだ。

☆首都運営の内容

 中央政府と首都の機能の境界をどうするべきか。府会、市会の義務と範囲をどうする。 

 各議員の選挙権、被選挙権の資格、員数の決定基準をどうするのか。区会、町会、村会、の規定をどう決めるのか。今後これらの機関が首都存続にてきしているか。

☆境界線の確定

 畜産の飼育、屠殺、埋葬の方法もそれに関係する。首都の面積についても、建物を三階、四階と高くすることで、実質の富を増加させる。首都の面積は広いことではなく、有形、無形の富が大きい。

☆道路は曲線

 一本道だけの町は、同じ戸数の円形、方形の町に比べて不便、不利益である。

☆首都内外の区別

 首都の内外の区域を明確に分けることが首都の各種施設、実態にそった施設の運営にする。

☆区画と公共施設

 区の区画、中央政府、学校、裁判所、区役所、警察署、遊郭、公園墓地、遊技場、劇場、芸妓の住居など、所在地は首都が許可基準を作って対応する。学校は周辺事情、風景と適合する場所にあることと、なるべくおおくの幼稚園を配置する。

☆交通機関、汚水、雨対策

 道路を破壊する荷馬車、荷車、人力車の荷物を鉄道で運搬させる。積載量に正比例して、また車輪の太さに反比例して税率を課税する。汚水、雨水の排水を整備する。

☆水道水、下水

 水源地を清潔で整備されたものにする。

 清掃を除外しない規定を公表することを都民の世論として為政者に要求する。

 下水すなわち汚水の排泄方法の完備は病気の伝播をさせないことからも大切である。

☆塵芥、糞尿の処理

 各家庭の塵芥、糞尿の規制をし、排除設備の建設をする。

☆理髪業・共同浴場

 理髪業への行政指導が効果を上げている。公衆衛生への熱意があるが警察が指導していく。共同浴場銭湯が高温でなく、脱衣場が清潔でないと各種の病気伝染が起こりやすい。共同浴場の病気の調査をする。

☆飲食物

 飲食物の行政指導し厳罰にする。

☆火災

 準巡査のような資格を与え、町に専属させ、防火防犯もさせる。緊急時には警察官の指揮下に入れる。

 町内の鳶(とび)を活用し、誇りの持てる名称をつけて町内に専属させ、防火防犯をさせ警察の指揮下に置く。

☆警察

 強盗は電信、電話の通報で防犯出来るようになった。強盗は首都中心部では少なくなった。反比例して窃盗、すり、誘拐、詐欺が繁華街、居住地で多くなった。防犯対策を特別に講ずる。

☆公園

 都内15区の土地の広さ、100余万人いて、上野公園と芝公園では足りない。

 東京は東部に1ヶ所、西部に1ヶ所、中部に1ヶ所の公園を配置する。

☆神社の改革案

 境内を整頓し、伊勢神宮の様式とし、常緑の樹陰が永遠に神の権威、霊の威容を失墜しないようにする。神社の用地を利用し、幼稚園を設置し、その結果を公表する。

☆寺院・墓地・市場

 寺院の数が多く繁華街にあることは都に利益をもたらさない。代替地を与えて外部に移転させる。墓地は拡張させず放射状に外に向かう延長は許し、都から遠ざかるようにし、墓地が都を囲むようなことは好ましくない。

 魚市場、野菜市場など新設したい者がいる場合、慎重に調査し、同業者や近隣地への影響を配慮し、首都全体からの配置を計算して許可、不許可を決定する。

☆劇場の構造・品格

 劇場の構造や立地を首都が干渉するのは無益である。構造については専門家が強風、大雪、豪雨、地震などに耐える構造かどうか判断する。

 品格は劣悪であってはならない。客の気を惹こうとする企画や運営は許可するべきではない。

☆劇場の内容

 演劇の内容がよいということは首都の男女の感覚、趣味の優美さや高尚さを表現するものである。劇の勧善懲悪を善としたりするものではない。文学の専門家に劇の善悪を聞くべきである。

☆遊人と壮士

 遊人は一時の良民と関係がなく、社会も憎悪していない。準警察官にしても良い。

 壮士は普段は良民に迷惑を与えないが議員選挙になると選挙権が行使出来なくなり、棄権するのが賢いような風潮をつくり、政治から切り離す。犯罪をおかしたものは退去命令をだす。彼らを政治家志望者にすることがあってもよい。

☆賭博と社会

 賭博は社会がなくしていくようにしていくべきである。花札の製造、販売は禁止、許可するときは重税を課すべきである。

 

 以上が『国の首都』の首都に関わる露伴がいうところの、首都の機能の佇まいについてである。

8 吉原遊廓

 『一国の首都』の4分の1以上の頁が吉原遊廓に割かれている。この分量の多さについてはいろいろと説がある。しかし『幸田露伴の世界』(16)で井波律子の指摘している説に、解明のきっかけを求めたい。

 露伴は電話修技学校を出て明治18年(1885)に電信技師明として北海道余市に赴任する。3年間が義務づけられていたが、2年足らずで東京に帰る。明治20年、この時露伴は21歳。この間のことを井波律子氏は『幸田露伴—その生涯と中国文学』の中で、この余市時代に坪内逍遥の『小説神髄』を読んだこと、そして3年間の義務を果たさずに『突貫紀行』に記した経緯の中で、遊廓での女性との始末の問題があったのではないかと指摘している。この仮定としての遊廓での悶着があれば、吉原遊廓にかかわる紙面が多いことにも納得できる。しかしそれにしても露伴が個人の経験したことだけで4分の1以上の紙面をかけるとは思わない。もとより個人感情はありながらも別な面も考えてみたい。

9 大衆化社会への警告

 それは『一国の首都』の始まりに、“江戸ッ子”とか“自覚”にこだわったこと、すなわち正統な考え方をしっかりと押さえ込んでおきながら一方で人間の欲望の果である遊郭を執拗に取り上げたのではないか、と推量する。そのように『一国の首都』を構成することで、はじめに徳川幕府崩壊の経緯、しまいに現実の風俗の乱れなどを訴え、中間に真面目な首都改造を配したのである。

 ここには昭和4年(1929)にスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットがあらわした『大衆の反逆』と軌を一にする、上げ潮のように登場する大衆の姿がある。無作法で押さえの効かない、大衆の際限のない欲望追求の時代の象徴としての遊廓と詳説しているのである。いま世は情報化社会にあって、まさに大衆のなすままの日本、世界である。この露伴の『一国の首都』が訴える国家、社会、個人のあり様は立ち止まって考える価値がある。露伴は誇りと自覚を持つ首都の住民、すなわち都民と国民の成長を求めるのである。

 露伴は昭和12年(1937)に第1回文化勲章を受ける。彼は東京會舘の祝賀会でこのように挨拶している。「いったい芸術というものは世間から優遇され、多くの人に認識されぬから成立するものではない…方々から何ももうされなくても良いのだし、またお祝いされなくても良いかと存ずるのであります。」といい、権威のどれほどをも歯牙にもかけない人柄であった。これからもさらに露伴については文学的な接近、幸田文、青木玉をつうじての解明もあるかもしれない。しかし、こと江戸から東京への自らの旧幕臣としての系譜への無念も含め、首都東京の有り様については、ひとこと江戸ッ子を自覚し自我同一性(アイデンティティ)を持つ露伴がぜひとも世に問いたかった問題であった。

注)

(15) 西山松之助著『江戸ッ子』2006 吉川弘文館 93〜95P

(16) 井波律子・井上章一共著『幸田露伴の世界』2009 思之閣出版 7〜8P.