第2章 北原白秋の柳川首都建設論

 北原白秋(隆吉)は明治28年(1885)、福岡県山門郡沖端村(今の柳川市)に生まれたことになっているが、実際は1ヶ月前に熊本県玉名郡南関で産声をあげている。

 白秋は矢留尋常小学校、柳河小学校(柳河は柳川市になるまで使用)、県立中学伝習館、早稲田大学英文科予科と進んだ。『邪宗門』を処女詩集として発表し、創作童謡の発表の場であった『赤い鳥』の創刊にも協力している。また多くの童謡を発表している。

 白秋の柳川にもつ愛郷心は熱烈なものがある。柳河藩祖を祀った三柱神社の山道の入口には石碑がたっている。

 その詩文は

「水郷柳河ここは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図この地租にして、はじめて我が体を生じ、我が風は成った」

と記している。この故郷を思慕する心はどこから由来するものであろうか。

1 「自我同一性(アイデンティティ)」のもたらすもの

 白秋は、慶応3年生れの露伴とは20歳ほどの年の差があるが、明治も20年代までは幕府の色合いも残っていて、断髪令は明治4年(1871)、廃刀令は明治9年(1876)という時代である。まだ265年続いていた封建制の基本である家意識、藩意識が残っていて、その圧力が解かれたから、と言ってすぐさま自由になって浮遊することは出来なかったに違いない。それまでの「自我同一性(アイデンティティ)」としての幕府、藩との関係が断ち切れるものではない。それまでのすなわち幕藩体制の側からの力は消えたはずであるが、住民の側からのつながり絆は個々人の選択によるものである。それまでの幕藩体制を忌む人も受け入れていた人も、いざ自分で判断してよい、とされた時に軛(くびき)を解かれた牛馬のように軽々しく判断、行動が出来たであろうか。白秋は故郷柳川に郷愁を強く持つ人間であった。

2 大正デモクラシーの旗手

 白秋は明治の空気を30年間吸って大正デモクラシーの文芸の旗手と言われた白秋は、大正元年(1912)を27歳で迎えている。明治42年(1915)に『邪宗門』を処女詩集として発表してから、大正七年に創刊された『赤い鳥』では童謡面を受け持ち、千遍におよぶ童謡を発表した。創作童謡に新しい世界を開いた。

 白秋の個性を培った明治から大正の時代の中で、大正2年(1914〜1919)の第1次世界大戦、大正5年(1917)のロシア革命などの国際社会の変貌、尾崎行雄などが先頭にたった第1次護憲運動、第2次護憲運動もあり社会や政治も活発に広がっていく過程にあった。しかしここで着目しておきたいことがある。それは人間は確実に3、40年前の時代やその生活に影響を受けている。すなわち慶応3年生れの露伴は徳川の末期30年の生活風習や教育に慣らされているということである。この世代の連結性によって今日まで私たちの歴史は継続してきているといってよい。明治時代後半に、政界や実業界で活躍してきた人々も露伴と同じである。町の塾に通い、書道や漢文の読み下しを習うことなどは、かつての武士の子、町民の子にへだてはなかった。露伴の語る明治になっての『少年時代』にそのことが記されている。その才能や環境は異るにしても、時代の巡り合わせは誰にも等しく光を当てるものなのである。そのような時代背景の中で、白秋は多数の文学活動のうちにあって、『柳河首都建設論』(12)を公表しているのである。福岡県の地元紙である『柳河新報』(13)に掲載されている。大正11年6月24日号にある。

3 白秋の『柳河首都建設論』の立場

 白秋はこの『柳河首都建設論』の中で、「来る可き日本の首府」について、「私はこの柳河の地、ことに筑後川と矢部川の流域、佐賀と久留米と柳河との三角圏内が来る可き日本の首都たるべき、即ち東西両京に対する南京の地とよていしてしてゐる」と書き出している。そして「日本は西に南に膨大す可き形勢にある。今にしても東京の地は東に偏し過ぎてゐる。東京遷都は一に徳川討滅とその政治継承、二に露西亜に脅威に対して北を抑へる必要があったからである。然し今日は既に朝鮮台湾を併せ、その勢力は満豪、西伯利亜(シベリア)、南支那に及び、遠くヒリッピン、交趾、邏羅、南洋、印度、豪州等の脅威と為ってゐる。従て帝都は今後南へ南へと移るであろう。」と展開している。この態度表明の文章こそ、世代論すなわち人の誕生する前の一世代(約30年)前の時代の仕組みというか香りというか影響を映し出すということにあてはまるものである。すなわち白秋の明治18年(1885)誕生から30年前というと安政2年(1855)になる。その30年前後の教育体制を始め家族関係、社会秩序など影響を考慮して、さらに大正デモクラシーの状況も合わせて判断すると、白秋の態度表明は極めて分かりやすい。

 大正デモクラシーは日露戦争終結明治38年(1905)から満州事件または五・一五事件までの大正を中心とする「戦間期」の時代思潮を指すという説もある。白秋が作詩も新首都建設も自由に論じ、主張することに異論をはさむ時代背景はない。われわれ戦後教育を受けてきたものにとっては、自由や平等は制度からも実生活からも保証されている。しかし平成の今から90年以上前に、「詩人が大臣になることが欧露なみに当然である」と主張する思想の背景があったことに驚くのである。まさに封建制度の高気圧の圧力鍋の中で馴致された生活をしてきつつも、時代の動きを正確に把握している大正人の姿である。そして柳河が柳河であるべき必要性を高らかに論じているのである。白秋は「柳河は今のまま保守しつつ、新しい文化の母郷とならなければ」という。二者択一の保守や革新、墨守や革命とも違うそれぞれの良さを折衷する、一見合理的で落ち着きやすい妥協を示している。この合理的な姿こそ皮肉にも後の世の史家から批判されるに大正デモクラシーの柔軟さである。腰のすわらなさ、格好の良さ、粘り強さの欠如が指摘されるところである。楯の両面である。

 幕藩体制の藩への求心力の強さは、大政奉還された後でも、あれこれ論ずるほど若弱なものではなく、統制が強いものであった。まして地方の藩の封建性にはまだ力があった。そのなかでの白秋の柳川首都論は注目すべきである。

4 日本をめぐる国内外情勢

 この当時の時代背景をみると、大正3年(1915)1月に、日本は中華民国に20か条要求を突きつけている。それまでドイツ権益であった山東半島を日本が継承する交渉の過程で、同盟国の英国にも秘密にした条項もあって、中国はもちろん欧米列国にも日本不信が広がっていった。この時の加藤高明外務大臣が軍や経済界の高圧的な要求を抑えられなかったのは、大正デモクラシーを支えとした日本の世論が強硬論となっていったからである。これも大衆世論を礼賛する民主主義の軽々しさと一致する。

 白秋の故郷柳河建設論は一面において、大正デモクラシーの自由で束縛を解かれた気風の具体的なあらわれである。しかし一面では「柳河は八幡や大牟田とは違います。それを思わない柳河の人なら禍です」(13)と白秋がいいきるにおよんで、自由を通り越して偏った柳河ナショナリズムにまで高揚している危険がある。

 私は地方には地方の特色があり、それを生かしたいわゆる地方自治があることが好ましいという立場である。徳川幕府においても数百以上の藩がそれぞれ独自色を出しつつ藩運営をしていた。具体的にはそれぞれの特産物、風土史などが残され現在も景観や産業として個性ある町となっている。しかしこの白秋の柳河第一主義、優先主義は度を越していると言わざるをえない。故郷を奮励し気を高めるというにしては苛烈すぎるといえよう。

 このように柳河を愛するあまりの強調されすぎた導入部のあとに一転して現実的な町村合併である「柳河、城内、沖端あるいはその周辺の村々の一部に部を加えて、市として大柳河と成りうべき十分な要素をもっています」(14)として将来の市への昇格を前提にした白秋の都市計画論すなわち「柳河首都論」が提言される。

 なお1880年ごろから幕末以来の不平等条約改正のために、欧州の町並みを作るための都市改造が論じられたが、今の都市計画の概念ではない。森鴎外も『市区改正論略』を著している。白秋のこの当時は「市区改正」といい「都市計画」とは言っていない。ちなみに大正8年(1919)に都市計画法が公布されてから現在使われている都市計画という概念が出てきた。

注)

(12) 新藤東洋男著『北原白秋の都市計画論』1999 熊本出版文化会館 35〜41P.

(13) 新藤東洋男著『北原白秋の都市計画論』1999 熊本出版文化会館 25P.

(14) 新藤東洋男著『北原白秋の都市計画論』1999 熊本出版文化会館 26P.