まとめ

 いままで検討してきた正岡子規、北原白秋、幸田露伴の首都論あるいは未来の東京を以下のように表にしてみる。(※表1)

【表1】本文掲載順

  正岡子規 北原白秋 幸田露伴
時期 明治32年 大正11年 明治32年
出典 『筆づくし』
『400年後の東京』
『柳河首都建設論』 『一国の首都』
主張 松山と東京の比較評価。東京の未来像を指摘する。 首都柳河を実現する。 自覚をもった江戸ッ子、都民が、日本の、世界の、東京を建設する。
論旨 郷土を愛し、東京を愛し、観念的、情緒的である。
郷土愛のある具体的提案。アジアの指導者たる柳河をつくる。 具体的に建築の高層化、上下水道、公共衛生などを推進する。
着眼方向 内向きに世界平和を目指す。 外向きに東アジアへの影響力を発揮する。 旧幕府の江戸ッ子の気風で東京をつくる。

 旧幕府のもとで地方の藩を中心に生活し、構造的には城を中心にして自我同一性が徹底されていたことが共通している。東京と比較はするが首都を松山とまでは考えない正岡子規、積極的にアジアの中心としての柳河首都を構想する白秋、当然のこととして江戸265年の延長線で東京を首都として盛り立てたい露伴。かつて明治、大正、昭和の地方都市では程度の差はあっても正岡的、北原的なわが町の評価があった。その極端な事例が東京に奠都されて身の置き場のなくなった京都がある。心理的な誇りとしての首都論がある。

 いま日本人は出身県、出身校、などで自我同一性(アイデンティティ)を確認している。たとえば都市対抗野球大会、春夏の甲子園野球、プロ野球、プロサッカーの郷土愛などで勝負に一喜一憂している姿がある。これはこれからも継続するであろう。このたびの正岡子規、北原白秋、幸田露伴の首都論、都市論を調べてみて明治から大正にかけて極めて原初的な郷土愛が発展して三者の意識が温存、醸成されていったことがわかる。