2014年12月15日掲載

鉄舟と露伴(7|10)
二人の死に方

—露伴の場合—

 露伴は昭和22年7月30日に80歳で死亡しています。この時、露伴はすでに2年間、千葉県市川の菅野で病床についていました。露伴は住居に蝸牛庵と名づけていました。どこに住んでも蝸牛すなわちかたつむりのように移り変わっていることの意味でした。菅野への転居は小石川、伝通院の新築によるものでした。

 露伴はこの地で芭蕉七部集の評釈を完成させています。大正13年から24年かかっています。

 露伴は離婚して、玉を連れて帰ってきた娘、文に厳しく接しています。

 それは幸田父娘の関係が、べたべたした日本風のものではなく、冷めたものであったことによります。

 年齢からくる老衰もあって、22年7月に入ると歯ぐきから血が出るようになりました。当時、銀座で開業していた、主治医であるのちに日本医師会会長となった武見太郎の手当で出血は一時止まります。

 しかしまた肺炎を起こし、武見の治療を受けます。7月23日は露伴80歳の誕生日となりました。文たちは尾頭つきの魚で祝っています。しかし露伴はこのあたりから食欲が衰えていきます。
 武見は当時まだ珍しい自動車で市川まで治療に通いました。
 7月26日あたりから、武見は文たちに絶望的な状態であることを漏らし始めます。
 リンゲル注射が打たれますが、露伴は脛の血管に針が入らず、「痛い、痛い」とうめくようになっていました。
 亡くなる30日の朝までに数回にわたって全身が痙攣しています。この頃は意識がなくなり、武見の注射でも反応を示さなくなります。
 そして、武見が東京へ車で帰ろうとした時に、露伴の顔色が赤い色から蒼黄色に変わり、武見は聴診器を露伴の胸に当て、脈を取っていたが聴診器を耳からはなし、文に挨拶をします。9時15分、文は静かに「お父さん、お静まりなさいませ」といいます。

 国葬という噂もありましたが、文は市川の菅野で葬儀を出しました。

2014年12月12日 記