2014年12月19日掲載

鉄舟と露伴(8|10)
二人の徒歩癖

 幕末から明治に青春期を過した二人には、交通手段は徒歩か駕籠、馬しかありません。

 その中で二人はよく歩き回って自分の気のすむままに行動しています。この活発な行動力とその後の各人の人生には深い関係があると思えます。

—鉄舟の場合—

 鉄舟が21歳の時にある人の屋敷に招かれ、食事をしていて自慢話に興じていました。その屋敷の主人が健脚であると誇り、「明日、下駄履きで、成田山を往復する(約140キロ)が誰か同行しないか」と提案しましたが、誰も応じません。そこで鉄舟は「遠路歩いたことがないので、明日お供します。」といいます。

 「それでは明朝4時に」と主人。この時すでに時間は午前1時を過ぎています。鉄舟は机にもたれて睡眠。朝、風雨が強かったのですが、高下駄を履いて出かけます。

 屋敷に着くと主人は「昨夜の酒で頭痛がする。どうしようもない」と断りました。しかし、鉄舟は「ともかく拙名は一人で行きましょう」といって出発しました。そして夜1時に、「ただいま帰りました」と屋敷に戻ってきました。鉄舟の高下駄の歯は磨り減り、全身が泥だらけ。主人は一言も発せず、沈黙です。このこと以来、鉄舟は仲間から畏敬されるようになります。

 さらに有名な江戸城無血開城の道を開いた明治元年3月の駿府に、西郷隆盛を益満休之助と歩いて行ったこともあります。江戸にくる討幕軍に真正面から突破するのですから、度胸も覚悟も人並みではありません。

—露伴の場合—

 露伴は明治16年、17歳の時に文明開化の象徴である電気事業の電信、電話を学ぶ電信修技学校に入学しています。

 そして現在もそうですが国費で学習した見返りとして一定期間、3年間は勤務しなければなりませんでした。

 露伴は明治18年に北海道余市の勤務につきます。仕事もしましたが、遊郭通いも熱心だったようです。(『幸田露伴』井波律子 思文閣出版)

 そこで女性との関係がこじれ、彼は余市を3年の任期を待たずに逃避します。連絡船で本土に渡った後、仙台まで歩き、友人から旅費を手に入れます。そして郡山から東京まで鉄道が通じていると知り、郡山まで歩きます。この間のことは彼の著書『突貫紀行』に書かれています。

 この時に露伴の筆名となりました「里遠し いざ露と寝ん 旅枕」と詠ったとされます。

 仙台から郡山まで歩いたのです。これにとどまりません。

 —『露団々』の50円で放浪—

 21歳で帰京して『露団々』という小説を売り込んで出版します。

 それを50円という原稿料で買い取ってもらいます。妹の延が現在の東京芸大である東京音楽取調所で助手を務めていましたが月給8円という時ですから大金です。

 ところが露伴は大晦日にこのお金を持って一ヶ月間歩き回って散財して帰ってきます。これは『酔興記』に書かれています。

 この直後から有名な『五重塔』などを次々と発表して文壇の寵児となっていくのです。

2014年12月17日 記