2015年1月6日掲載

鉄舟と露伴(9|10)
非組織人としての二人

 鉄舟も露伴も江戸幕府から禄を得ていた家に生まれて、勉学につとめることができ成長しています。

 恩を大事にする時代であるから、体制への追従は当然でした。だが、二人を観察すると、一般的な組織への拘りはまったくありません。

 自分本位に生きていました。すなわちそれはわがままというより、誠意または中心を貫く姿勢といったものに従った生き方といえます。

—鉄舟の自分本位の生き方—

 鉄舟は代官の子として生まれました。軽勤もあって飛騨に行き、そこで幼少期から勉学、武道に親しみます。そして故あって山岡家の養子となります。昔は養子、養女は簡単に取り交わされていました。すなわち口減らしのためという理由もあったくらいです。

 彼は新選組の前身となる組織を清河八郎と作ります。しかし清河が殺害されると、その連判状を死骸から取り去り、同志の罪が露見しない知恵を働かせます。そのことで鉄舟本人も生き延びられたのです。

 さて究極の非組織活動は東海道を西進して、静岡で西郷と会って徳川慶喜の岡山封じを取りやめる談判に行くくだりです。勝海舟から頼まれて益満休之助と二人で東進する官軍に逆行して東海道を西進します。

 この覚悟と度胸は常人ではありえません。組織の助けが背後にない鉄舟。これほど個人を露出した機会は生涯なかったでしょう。人間が問われ、それまでの修行が試された行為です。鉄舟の目からの記録でも幕府の人間である自分の立場と、名前を名乗って官軍の真ん中を歩んでいきました。ここに生命と自分、名誉、功名心もなかったはずです。一にかかって徳川慶喜すなわち江戸、江戸庶民の生命を永らえることがあったに違いありません。

 組織すなわち徳川幕府の使者という立場は西郷隆盛と会談する時にはじめて西郷が認識したものであって、東進する薩長の兵士に山岡などまったく歯牙にかけない存在でした。殺されてもおかしくない場面です。

 のちに西郷が語ったとして残される「生命も、名誉も、官位も金もいらない人ほど扱い困る人はいない。だがそんな人とでなければ天下は語れない」といっていますが、そんな人とは鉄舟であるといわれています。

 立場を越えて官軍、幕府軍の組織、立場を超越した二人であればこそ、人間としてつながることができたのです。のちに西郷が征韓論に敗れ鹿児島に帰る前に山岡邸での二人の会話や西郷が鹿児島に帰った後、明治天皇の意を受けて鉄舟が鹿児島に行って二人で温泉に入って語りあったことなど組織を前提にはとても考えられるものではありません。非組織すなわち個人の力、思想のなせるワザとしかいえないのです。

 組織に頼りきる温和な考え、行動では江戸無血開城は行なわれなかったのです。

2014年12月30日 記