2014年10月14日掲載
鉄舟と露伴(1|10)
鉄舟といっても、露伴といってもすぐに分る人は少ない時代になりました。
私は鉄舟のつくった全生庵に座禅にいくようにしています。日曜日ですが。
江戸城無血開城という難事業のために働いたことは、倒幕側の西郷隆盛と勝海舟の会談で決まった結果をいわれて劇的に彩られてきていました。しかし、その前段で、江戸に東海道を勝ち上がってくる兵隊に向かって和平を求める時の江戸幕府の最高権力者、徳川慶喜の意を受けた山岡鉄舟ともう一人が突き進んでいきます。記録によりますとその時に山岡鉄舟は「幕府の山岡である」と明言して倒幕の薩摩勢力の中を通り過ぎ、あ然とさせています。
ありえない行動だったからでしょう。このような胆力を持っていた人が山岡鉄舟でした。
また露伴も家は江戸幕府のなかで作法をつかさどる立場にいた家柄であったので、格式、あり方を大事にする考え方、生き方をしてきていました。
私たちは自分に近いところ、いまの世界を善とし、それ以前を悪あるいは遅れて、劣っていたと批判、非難することがあります。しかし完全な善も完全な悪もないように、世界や歴史は複雑にからみあっています。これからこのような歴史のすなわち時間、時代のなかで山岡鉄舟、幸田露伴がどのように動き、生きていったのか数回にわたって書き記すことにします。
2014年10月13日 記