2015年1月8日掲載
鉄舟と露伴(10|10)
非組織人としての二人
—露伴の場合—
文化勲章の第一回受賞者の露伴が80歳で亡くなったのが昭和22年。当時は有名な文化人が没すると、国会で追悼演説がありました。福沢諭吉、坪内逍遥は衆議院でありました。
露伴の場合、7月30日に亡くなり、8月1日に追悼演説が決まりました。
参議院で山本有三が行ないました。その時に紹介された露伴の肩書きは「帝国学士院会員、帝国芸術院会員、文学博士」でした。
それを中野重治は「清貧な芸術家である露伴をけなすもので、資本、官僚のしもべにならなかったことに露伴の露伴たるところがある」と批判しています。
事実、露伴自身も文化勲章の受章の時も国家に好遇されるより虐待されるところにすぐれたものがある、と挨拶しています。
明治文壇の大立者といわれた紅露逍鴎の4人を見ても露伴以外は一派を作り、仲間と文壇を支えています。ひとり露伴は慶應義塾大学の小泉信三塾長や雪博士の中谷宇吉郎、哲学者の和辻哲郎などと個人的に親交があった程度で、群れることを嫌っていたふしがあります。
正岡子規が小説家をめざし『風流仏』で売り出した露伴を訪ね、『月の都』の原稿を差し出し批評と出版を乞うのですが、翌日、露伴は子規に原稿を返却し、出版社から断られた旨を伝え、『月の都』に載せた俳句をほめています。
子規の小説家断念、俳人への進路変更はこの時でした。露伴は冷たいわけではないのですが、他の作家と同様のつきあい方をします。
旧幕臣の家系それも江戸勤務の政治の中枢にいた自負があったのかもしれません。
2015年1月6日 記