2014年12月1日掲載

鉄舟と露伴(5|10)

—二人の誕生と幼少期—

 鉄舟は天保7年(1836)に、父・小野朝右衛門の四男として母・磯との間に、江戸・日本橋で生まれています。磯は朝右衛門の三番目の妻で、磯には最初の子が鉄舟でした。鉄舟は江戸で過ごしている間に、9歳で神陰流の久須美閑適斎に剣術を学び始めます。

 翌年の弘化2年(1845)に朝右衛門が飛騨高山(現在の岐阜県)に郡代として赴任することにともなって移住しています。

 この地で書道を岩佐一亭に、父が招いた井上清虎から北辰一刀流を学びます。飛騨には嘉永5年(1852)まで7年間滞在しています。その時17歳でした。

 鉄舟は16才で母を、17歳で父を失っています。父は臨終の床で3千5百両を出して5人の異母弟の将来を託しています。

 飛騨から異母兄の小野古風の家に5人の弟と寄宿しています。

 一番下の弟・務は2歳になったばかりだったので乳母を雇い入れようと古風に相談するのですが、冷淡なので務を抱いてもらい乳をして近所を歩き、添い寝して3ヵ月も面倒を見ました。鉄舟はその後、5人の弟に父の遺した金を分け、旗本の家にそれぞれ養子に出し、自分は百両を持参して山岡家に養子として入ったのです。残った金は古風に渡したということです。

 この異母兄に寄宿していた時、鉄舟の衣服は破れてボロボロであったので「ボロ鉄」という綽名で同輩たちは呼びました。鉄舟もこの綽名を自分でも使っています。

—露伴—

 露伴は慶応3年(1867)に父・成延、母・猷の四男として生まれています。生家は代々、徳川幕府の表坊主で、江戸城に登城する大名の食事などの世話係でした。この年に大政奉還となり、翌年から幸田家は失業します。

 明治5年(1872)、6歳の時に書家・関雪江の姉の千代について読み書きを習います。7歳から私塾で『孝経』の素読、四書五経も習ったようで漢学の教養も習得しました。

 明治8年〜12年までお茶の水の東京師範学校付属小学校に通学し、卒業します。このころ『水滸伝』も読んでいたようです。

 明治12年(1879)に東京府立一中に入学しますが、経済的事情で中退します。

 そして湯島にあった東京図書館に通い、猛勉強を始めます。

 明治14年(1881)、15歳で東京英学校に入学しますが、翌年に中退します。

 この頃に菊地松軒の漢学塾に入り漢文の読み下しの習得をしています。

 明治16年(1883)に電信修技学校に給費生として入学。卒業し、明治18年(1885)に20歳で北海道余市に電信技師として赴任します。3年は義務で就業することになっていたのですが、2年で職場放棄して、放浪しつつ東京に帰ってきます。

 

 二人の誕生から青春期を見ますと30年ほどの時間差はありますが、鉄舟の苦労といい露伴の転変といい、激しい人生の激流にいました。

 二人が特別なのではなく、だれもが多かれ少なかれこのような時代に翻弄されていたのでしょう。

 その中で溺れずに浮かび上がってきた者に使命が与えられ後の世の人人が評価、批判を加えることになります。

2014年11月29日 記